河井継之助とは 新政府軍と戦った長岡藩の家老


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 河井継之助(かわいつぎのすけ)は、1827年、120石の長岡藩士・河井秋紀(河井代右衛門秋紀)と、母・貞(貞子)との間に長男として生まれた。

 幼少の頃から気性が激しく、負けず嫌いな性格であったとされる。

 長岡藩の藩校・崇徳館で儒学を学び、1842年に元服。
 1850年には御用人・梛野嘉兵衛(250石)の妹・すがと結婚した。

 1852年の秋頃、江戸に遊学すると斎藤拙堂、古賀謹一郎から儒学を、佐久間象山から西洋学を学んだ。

 藩主・牧野忠雅が家臣らに広く意見を求めると、河井継之助の建白書が藩主の目にとまり、1853年には御目付格評定方となり帰藩を命じられた。
 しかし、藩の家老ら保守派の抵抗が強く、改革できないまま2ヶ月程で辞職し、再び江戸に赴いた。

 そして、東北遊学などを行ったあと、1858年に家督を継いで外様吟味役に就任。

 1859年には、再び江戸に遊学して古賀謹一郎の久敬舎に入門。
 その後、西国へ赴いて備中松山藩の山田方谷から教えを受けると、佐賀、長崎、熊本と歴訪し、横浜を経て長岡に戻った。

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 1862年、藩主・牧野忠恭が京都所司代となると、河井継之助も京都詰を命じら、1863年正月に上洛。
 9月に牧野忠恭が老中となると、河井継之助も公用人として江戸に入ったが、暴言を吐いてしまい長岡に帰郷。

 1865年に郡奉行に就任すると、農政改革、灌漑工事、兵制改革などの藩政改革に着手し、出世して行った。
 特に家禄が100石より少ない藩士には加増し、100石より多い藩士は減俸するなどと言う改革が評価されている。

 1867年10月、徳川慶喜が大政奉還を行うと、12月には王政復古が発せられて、一時、新藩主・牧野忠訓と共に京に上洛したが、徳川慶喜が大阪城から江戸に退去すると、急ぎ江戸に行き、長岡藩の江戸藩邸の処分などを行い長岡に戻った。

 その時の売却で得た資金を元に、暴落したコメを買って函館で売るなどして軍資金を増やし、最新式の兵器を購入。
 4月には家老となり、閏4月に家老上席。そして、軍事総督となり長岡藩を指揮する事となる。

 長岡藩は徳川将軍家を支持していたが、 会津藩・佐川官兵衛が長岡藩に奥羽列藩同盟へ参加を求めても、河井継之助は同盟への参加を当初は拒んでいる。

 しかし、1868年5月2日に、新政府軍の軍監・岩村精一郎と小千谷の慈眼寺で会談し、長岡藩の中立を主張したが受け入れられず決裂。
 やむなく奥羽列藩同盟に参加する事となり、新政府軍と戦闘状態となった。

 開戦当初は、最新兵器を駆使して新政府軍と互角に戦うも、兵力に劣る長岡藩は次第に押されて、5月19日には長岡城を奪われたが、7月25日に長岡城を奪還すると言う快挙も挙げている。
 しかし、河井継之助は左ひざを銃撃されて重傷を負う。これにより長岡藩は士気と指揮系統が低下し、7月29日に長岡城は陥落すると、河井継之助らは会津へ向けて落ちのびた。

 会津若松にて松本良順の治療を受けたが、傷は破傷風となり手遅れな状態であり、最後まで従った者に後の事を託し、火葬の支度もさせると、只見・塩沢村の医師・矢澤宗益宅にて8月16日に息を引き取った。享年42。

 

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