和宮【和宮親子内親王】公武合体の象徴とされた皇女


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和宮親子内親王は、仁孝天皇の第八皇女として、京都御所の東に隣接する橋本邸にて1846年閏5月10日に生まれた。
母は母は側室・橋本経子(観行院)。
父・仁孝天皇は和宮の誕生に先立つ1月26日に崩御しており、和宮は勅命により橋本邸で養育され、名は異母兄・孝明天皇より閏5月16日に賜った。

1851年7月12日、5歳のとき孝明天皇の命により有栖川宮熾仁親王と婚約した。

和宮は少し足が不自由だったが、小柄でとても可愛らしく、身長1m43cm、体重34キロ位だったとの事。
婚約してからずっと有栖川宮家で世話になり学問などをしていた。

しかし、時は幕末で1853年にはペリー提督率いるアメリカ艦隊が来日し、1858年には大老・井伊直弼が、朝廷の許可を得ずに日米修好通商条約に調印。
これに怒った尊王攘夷の志士やらは朝廷にも働きかけ、孝明天皇は水戸藩はじめ御三家、御三卿などに対して戊午の密勅を下した。

戊午の密勅(ぼごのみっちょく)とは、諸藩は幕府に協力して公武合体の実を成し、幕府は攘夷推進の幕政改革を遂行せよとの命令であり、孝明天皇は幕閣、外様大名、譜代大名らの協調による「公武御合体」を要求した。

これを徳川斉昭(前水戸藩主)らによる陰謀とみた井伊直弼は安政の大獄を行い、即時攘夷を求める孝明天皇を屈服させた。
その為、井伊直弼は反感を買い、1860年に水戸・薩摩浪士により暗殺されている(桜田門外の変)。

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和宮降嫁

このような状況かで外国の脅威に対抗する為、朝幕関係を念密にして国論統一を図る公武合体策の一環として、14代将軍・徳川家茂の御台所として皇女の降嫁が画策された。

1859年4月27日、和宮 親子内親王(かずのみや ちかこないしんのう)の婚約者である有栖川宮熾仁親王への入輿が、翌年の冬にと内定。

しかし、当初、皇女の降嫁として孝明天皇の皇女・富貴宮が候補に挙がっていたが、1858年に生まれたばかりでまだ幼かったため、宮中では5月に和宮降嫁を議奏・久我建通らが内議。
更に、8月に富貴宮が薨去した為、幕府としても和宮を望むようになった。

年が明けると京都所司代・酒井忠義の使者が橋本邸を3度も訪れるなど、和宮降嫁の話が進んでいく。

1860年4月12日、幕命を受けた所司代・酒井忠義が関白・九条尚忠を通じて朝廷に和宮の将軍家降嫁を出願。
しかし、孝明天皇は、和宮は自分の娘ではなく、既に婚約も成立しており、何より本人が関東に行くのを嫌がっているとして断っている。

徳川幕府は有栖川宮家に和宮との婚約を辞退させるなどした他、再三に渡り和宮の降嫁を奏請した為、思案に窮した孝明天皇は、侍従・岩倉具視に意見を求めた。

その結果「攘夷を実行し鎖国の体制に戻すならば、和宮の降嫁を認める」旨の勅書を出し、幕府が7月18日に「10ヵ年以内の鎖国体制への復帰」を奉答したことで、孝明天皇は和宮の降嫁を決断した。

京から出たことのない和宮は、江戸に行くことを拒否するため8月7日に宮中へ上がり、縁組の辞退を申し出た。

孝明天皇は、既に幕府に攘夷と降嫁を約束しており、どうしても辞退するのであれば、仁孝天皇の1歳の富貴宮を代わりに徳川家へ嫁つがせ、それが受け入れられなかったら自分も責任をとって譲位するから、和宮も林丘寺に入って尼になるようにと言ったため、家族・親族だけでなく天皇にも迷惑を掛けると、降嫁を承諾した。

なお一方で、徳川家茂にも婚約者がいたとため、お互い政略に巻き込まれる形となった。

幕府からは早期の降嫁を求められ、和宮は断ったが、孝明天皇の説得を受け、来春の下向を承諾。

1860年10月18日、孝明天皇は和宮の降嫁を勅許し、宰相典侍・庭田嗣子、命婦・鴨脚克子、大納言典侍・橋本麗子が和宮付女官に選定された。

江戸城の大奥に入る

1861年10月20日、和宮一行は桂御所を出立。
生母の観行院、乳母の土御門藤子、女官の庭田嗣子(仁孝天皇の典侍)、能登らも江戸での和宮近くで仕えるため、江戸下向の際に同行した。
東海道だと過激派による妨害の恐れがあるとして、中山道を進んで江戸へと向かった。
駕籠の数800挺の行列は警護や人足を含めると総勢3万人で距離は50kmに及んで、各宿場の行列通過には前後4日要したと言い、御輿の警護には12藩、沿道の警備には29藩が動員され、現在の費用に換算すると約150億円も費やした。
和宮が通過する沿道では、住民の外出・商売が禁じられた他、行列を高みから見ること、寺院の鐘等の鳴り物を鳴らすことも禁止され、犬猫は鳴声が聞こえない遠くに繋ぐよう指示が出た他、火の用心が徹底されるなど厳重な警備が敷かれたと言う。

こうして和宮一行は1861年11月15日、江戸城内の清水屋敷に入った。
11月21日には岩倉具視・千種有文が老中・久世広周安藤信正と会見している。
そして、12月11日、和宮は江戸城本丸の大奥に入った。

この頃、薩摩藩は天璋院篤姫に薩摩帰国するようにと申し出たが「自分は徳川家の人間だから」と天璋院は帰国を拒否している。

1862年2月11日、和宮と徳川家茂の婚礼が行われた。

征夷大将軍で夫の徳川家茂よりも和宮の方が身分は上だった為、婚儀の際も、将軍・徳川家茂から和宮に挨拶をすると言う前代未聞の現象が起きた。
また和宮は大奥でも京都御所風の生活を続けようとした為、天璋院篤姫ら大奥と対立したと言う。

1863年2月13日、徳川家茂が京の二条城に向かった際には、24日から増上寺の黒本尊の御札を勧請し、天璋院篤姫と共に御百度を踏んで、無事を祈っている。

1865年5月16日、第2次長州征伐に向かう徳川家茂の出陣を見送ったが、これが最後の対面となった。
また、1865年8月10日には、和宮生母・観行院も江戸城でなくしている。

1866年4月、大坂城の徳川家茂は体調を崩し、6月には食事も喉を通らなくなる。
和宮や孝明天皇は医師を大阪に派遣するなどしたが、7月20日、徳川家茂は大坂城で薨去。僅か4年の結婚生活であった。

12月9日に和宮は飾し、号を静寛院宮と改めたが、12月25日には兄・孝明天皇が崩御し、和宮は1年余りの間に母・夫・兄を次々と失った。

江戸城開城後

江戸城開城となると、和宮は亡き将軍・徳川家茂の生母である実成院とともに田安屋敷へと移った。

その後、1869年(明治2年)に天璋院篤姫を尋ねたあと、一旦京に戻り、聖護院を仮住いとした。

1874年(明治7年)、明治天皇の東京行幸の際、再び東京に入ると麻布市兵衛町の八戸藩・南部信順の元屋敷に居住。
11月12日に徳川家達を招待し、11月29日には天璋院、本寿院らを御殿に招待し、翌年、自らも千駄ヶ谷の徳川宗家を訪問している。

その後、勝海舟の家で、天璋院と和宮は互いに相手のご飯をよそって仲良く食事するなど、天璋院は和宮は理想の間柄となったが、それも数年と僅かで、和宮は明治10年に病気療治のために滞在していた箱根・塔之沢の環翠楼で病死した。(享年32)

脚気衝心(脚気による心不全)と考えられている。
遺体は、遺言どおり芝・増上寺の徳川家茂の側に葬られた。

のちに天璋院が塔ノ沢へ旅行した際には、和宮が最後に過した旅館を見て、天璋院は涙したと伝わる。

徳川将軍の墓で、夫婦二人の墓が横に並ぶのは天璋院篤姫と和宮の2組だけである。

岩倉具視 倒幕と明治新政府に貢献した公家
徳川家茂~幕府に翻弄され大阪城で殉じた徳川幕府の14代将軍
天璋院篤姫とは~薩摩・島津家から徳川将軍の御代に
芝の増上寺の見どころ~和宮の墓所もある徳川家の菩提寺

 

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