楠本いね(楠本イネ) 日本初の西洋医学の女性医師は美人だったその理由は?


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 楠本いね(楠本イネ)(くすもといね)は、長崎出島で医師をしていたドイツ人医師・シーボルトの娘で、1827年5月6日に長崎で生まれた。
 母は楠本瀧(お瀧)で、長崎の薩摩藩御用達の商家にて小間使いとして働いていた。

 シーボルトは長崎奉行所の依頼を受けて、長崎の蘭学医・楢林家に出島から出張して日本人の診察・治療を行った。
 そこへ17歳で美女だった楠本瀧(お瀧)が診察を受けに来たことで知り合い、シーボルトと恋に落ちたとされる。

 長崎の出島には一般の日本人は入れないので、丸山の遊郭である引田屋・引田卯太郎に相談し、源氏名「其扇(そのおうぎ)」の名を借りて、出島に出入りし、オランダ商館の医師・シーボルトと一緒に暮らし、楠本イネを産んだ。

 これは徳川幕府が長崎に来るオランダ人に対して「単身」で赴任することを求めていたため、出島には多くの遊女が入ることを許されていたのだが、通常、混血の子はたくさんのお金を渡して里子に出されることが多かったようだ。
 しかし、シーボルトは出島に母子を住まわせたと言う。

 シーボルトが1828年に一時帰国しようと際、先発した船が難破し、日本の浜に漂流物が大量に流れ着いたが、その積荷の中に江戸幕府より国外持ち出しが禁止されていた「日本地図」が見つかった。
 これは、幕府天文方・書物奉行の高橋景保が、シーボルトから世界周航記をもらったお礼に、伊能忠敬の日本地図縮図を贈ったものであったが、シーボルトが海外に持ち出そうとしたのだ。
 出島のシーボルトは身の潔白を明らかにするため、長崎奉行所に気化して日本人になる事を申し出たが、訊問と家宅捜索を受け、楠本イネが2歳のとき、1829年に国外追放の上、再渡航禁止の処分を受けた。

 シーボルトは母子が困らないようにと門人に託し、生活費も置いて行ったそうだが、美しい母には結婚の申し込みが絶えず、1831年に母が海漕業者・俵屋時次郎と再婚すると楠本イネも連れられて行った。
 しかし、その後も楠本イネは、オランダの父から送られてきた医学書や蘭学の書物で勉強し、シーボルト門下生の宇和島藩・二宮敬作から医学の基礎を学ぶと、19歳のときには石井宗謙を紹介されて産科を7年間学んだ。
 成人した楠本イネは背が高く、顔だちも母ににて美人であったと言う。

 その後、長州藩から逃れてきた村田蔵六(後の大村益次郎)から、オランダ語の教授を受けた。

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 1859年からはメーデルフォールトから産科・病理学を学んだが、1854年に日本は開国し、1858年には日蘭通商条約が結ばれると、シーボルトに対する追放令も解除された。
 1859年、シーボルトはオランダ貿易会社顧問として再来日し、楠本イネと再会しているが、オランダからは息子アレクサンダー・フォン・シーボルトも一緒に来日した。
 シーボルトは長崎の鳴滝に住居を構え、昔の門人らとも交流し日本研究を続けた。
 息子アレクサンダーも日本を研究し、初めて「考古学」と言う言葉を使用したことで知られる。

 一方、楠本イネは引き続き医学を学び、1862年からはボードウィンに従事している。

 後年、京都にて大村益次郎が襲撃された際には、ボードウィン医師も治療に駆けつけたが、楠本イネも看護し、最期を看取っている。

 楠本イネは、宇和島藩主・伊達宗城から厚遇され、1861年、徳川幕府に招かれると外交顧問に就任し、江戸にてヨーロッパの学問なども講義している。
 しかしこの間、シーボルトはお滝とイネが雇った家政婦・シオとの間に子をもうけ、イネらを深く失望させている。

 明治2年に、アレクサンダーが再来日した際には、弟・ハインリッヒも日本に初来日し、1871年(明治4年)、この異母兄弟にあたるシーボルト兄弟(兄アレクサンダー、弟ハインリッヒ)から支援を受けて、東京・築地に医院を開業すると、日本で初めて西洋医学を学んだ女性医師で、しかも美人であったため、評判も良く、医学技術も高く評価された

 その後、福澤諭吉の配慮もあり、47歳のとき宮内省御用掛に就任。
 金100円を下賜され、明治天皇の女官・葉室光子の出産にも立ち会った。
 ちなみに、異母弟・ハインリッヒと、妻・岩本はなの子の助産も楠本イネが助けている。

 1875年(明治8年)、医術開業試験制度が始まると、当時は女性には受験資格がなく、東京の医院を閉鎖し長崎に帰郷した。

 1884年(明治17年)、医術開業試験の受験資格が女性にも開かれたが、既に57歳になっていたため、以後は産婆として開業した。

 楠本イネは生涯独身であったが、1852年(1854年とも?)に岡山にて石井宗謙との間に娘・高子(タダ)を出産しており、その娘一家と同居のために長崎の産院も閉鎖すると再上京し、以後は医者を廃業している。

 そのあとは、弟ハインリッヒの世話となり余生を送った。

 1903年(明治36年)8月26日、鰻と西瓜の食べ合せによる食中毒?とされるが、東京の麻布で死去。享年77。

 墓所は長崎市晧台寺にある。

 下記の写真は、楠本イネの娘・タダ(高子)

 

 

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