松浦武四郎 「北海道」の名付け親は、北海道が嫌いな旅人?


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北海道がかつて「えぞ地」と呼ばれていたことはご存じだろう。
では、いつ北海道が「北海道」と呼ばれるようになったのか?

それは明治時代に入ってすぐのことだ。

時代が大きく変化する中で「えぞ地」(蝦夷地)の名前も変えようという話が持ち上がった。

昨今、領土問題がニュースとなることが多いが、当時は鎖国の終焉でロシアからの脅威にさらされており、名称を付けることで日本の領土をアピールする狙いもあったのだ。

そこで明治政府がえぞ地に変わる地名の候補を提出するよう、とある人物に求めた。

それが松浦武四郎(まつうらたけしろう)、1818年2月6日~明治21年(1888年)2月10日。

1869年(明治2年)年7月16日のことだった。

教科書には最上徳内や近藤重蔵、伊能忠敬などえぞ地探検をおこなった歴史上の人物が多数掲載されているが、なぜそんな大役を教科書には載っていない武四郎が担ったのか?
その生い立ちから探っていきたい。

松浦武四郎は、1818年2月6日、伊勢国一志郡須川村に生まれた。須川村は現在の三重県松坂市小野江町。

伊勢神宮につながる宿場町で、伊勢神宮へと続く伊勢街道沿いに松浦武四郎の家があった。
はるか遠方から伊勢神宮に訪れる旅人たちを日頃から見ており、武四郎は旅への関心を強めていったのだ。

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そんな武四郎が初めて旅に出たのは16歳の時だった。
家出同然で江戸に向かった。
父親に一度連れもどされたものの旅への意欲は増すばかりで、その後も京都、四国、九州へと旅を繰り返した。
武四郎のその心には「旅には生きた学問がある」との思いがあったのだ。
そんな武四郎に転機が訪れる。

えぞ地に興味を示すロシアが船を度々派遣していることを知るのだ。
真逆の九州・長崎にいたにも関わらず、武四郎はえぞ地を目指すことにする。
1844(天保15)年、武四郎は26歳となっていた。

松浦武四郎はこの後、まだ開拓されていない荒野のえぞ地を3度も訪れる。
誰に命令されたわけでもないのに、だ。
しかも奥地まで足を運び、地理だけではなく、自然環境やアイヌの人たちなどについても知識を蓄えていく。

下記は阿寒湖畔に建つ、松浦武四郎の歌碑。

断崖絶壁の摩周湖でも道なき崖を湖畔に降りると、洞窟を発見して夜を明かしたとも言う。

旅から帰った武四郎は、その都度えぞ地に関する書物を執筆し、出版。
この書物にはえぞ地の地形、地名、山川、湖沼、岬、動物、植物のみならず、土地間の距離やその地で暮らすアイヌ民族の姿、松前藩による支配の実態などが事細かに書かれていた。

武四郎は、この書物を水戸藩など、えぞ地に興味を持っていた藩や、幕府に献上。武四郎の名は広く知れ渡り〝えぞ通〟と言われるまでになったのだ。

時は江戸時代末期。

ペリー提督の襲来によって江戸幕府の対外政策も大きく変わろうとしていた。
日米和親条約を結んだことで、そのほかの外国船がいつやって来るかも分からなくなったため、幕府はえぞ地の調査を急いだ。
そこで声がかかったのが松浦武四郎だ。
「えぞ地御用御雇入」という役人に任命された武四郎は、さらに3度のえぞ地探検を行うことになったのだ。

1868年(明治元年)に明治新政府ができ、翌1869年(明治2年)に開拓使が設置されると、武四郎は6月に「えぞ開拓御用掛」、7月に「開拓大主典」とトントン拍子に出世した。
そして7月16日にえぞ地に変わる新しい名称を考えるよう、求められた。

武四郎はまるで準備していたかのように翌17日には「北加伊道」「海北道」「日高見道」「海島道」「東北道」「千島島」の6つを、えぞ地の新しい名前の候補とした「道名之儀に付意見書」を政府に提出。
この案をベースにして、開拓長官・鍋島直正ら要人の間で話し合いが持たれ、その結果、北加伊道」をもとに「北海道」とすることを決定した。
そして9月26日に「この度、蝦夷地一円を北海道と称する」と発表。これが〝北海道〟という名称のスタートとなったのだ。

大きな功績を果たした武四郎はさらに位の高い「開拓判官」に就任。
高官として北海道開拓および統治に尽力するが、すぐに役人を退官する決意をする。

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その理由は、政府の方針に納得がいかなかったからだ。
松浦武四郎が理想とする北海道とは、えぞ地探検の際に世話になったアイヌの人たちが住みやすい土地だった。
しかし、実際には和人による北海道支配が進み、アイヌの人たちが苦境に陥ることとなっていた。
自分の意向が受け入れられないもどかしさから、役人を辞める決意をしたのだ。

実は、候補案の「北加伊道」にもアイヌへの尊敬の念が込められている。
アイヌ民族の長老アエトモとの会話の中で「アイヌ民族は自分たちの土地をカイと呼ぶ」と聞いていたのだ。
武四郎はアイヌ民族の呼び方、ならわしを尊重し「カイ」という名称を忍ばせておいたとも言われている。

元々旅人だった武四郎は、役人を辞めた後も頻繁に旅を楽しんだ。
全国各地へ旅を繰り返し、さらに登山にも挑戦した。
なんと70歳の時に富士山登山に挑むなど、晩年も健脚ぶりを発揮していたという。

ちなみにえぞ地に関わる書物は、生涯で151冊も執筆。
「北海道」の名付け親でありながら、えぞ地を愛し、アイヌ民族を愛した〝えぞ通〟だったのだ。

(了)

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