野村彝之介 水戸藩士


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 野村彝之介(のむらつねのすけ)は、1824年生まれの水戸藩士。
 父は野村則行。母は石川喜昌の娘で、その長男。
 家禄は100石で、水戸藩では北郡奉行を務め、尊王尊攘運動に参加した文武両道の人物であった。

 その後、奥右筆頭取・大目付・側用人など歴任し、藩主・徳川斉昭のもと安政の改革を進めた。
 しかし、1858年に勅書問題が起こると、勅旨奉行として勅書返納に反対して奔走した為、藩士・高橋多一郎、金子孫二郎、関鉄之介は蟄居となり、野村彝之介、矢野長九郎、大胡聿蔵らは小普請組に降格となった。

 1859年3月、薩摩藩・高崎五六が、水戸を訪れた際にには、高橋多一郎らと会見し水戸藩・薩摩藩との連携を模索。

 1860年7月、水戸藩の西丸帯刀住谷寅之介らと、長州藩の桂小五郎松島剛蔵らと会合。
 丙辰丸の盟約(成破盟約・水長の盟約)を結んだが、長州藩の藩論が変わったため、郷里に戻って潜んだ。

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 その後、大老・井伊直弼の暗殺計画にも加わる。
 1860年3月3日、桜田門外の変で井伊直弼が襲撃されたが、その時は立案者の金子孫二郎から頼まれて、実行犯から脱藩届を受け取っている。

 1860年10月、金子孫二郎と共に閉居処分となると脱藩したようで、1861年5月28日、イギリス公使ラザフォード・オールコックらを襲撃した東禅寺事件後、原市之進らと老中・安藤信正の暗殺(坂下門外の変)を計画。

 1862年1月15日、坂下門外の変が起こると、関鉄之介らと上方に向い1月26日に大阪に入った。
 その後、何度か上京するなどして、天狗党の挙兵以後の藩政混乱の収拾につとめた。
 1868年には、在京の家老・鈴木重義を補佐し、勅を奉じて帰国すると市川三左衛門らを追放して、水戸藩として官軍に加わり奥州征伐に加わった。

 その後、水戸藩参事となり、廃藩後は茨城県典事となったが、まもなく辞職すると徳川家の家政を務め、晩年、常磐神社宮司を務めた。

 明治21年(1888年)8月2日、65歳で病死。

 墓は水戸市松本町の常磐共有墓地。贈従四位。

 

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