四条隆謌~唯一帝国陸軍の道を歩んだ幕末の公卿




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 四条隆謌(しじょうたかうた)は、権大納言・四条隆生の2男として1828年9月9日に生まれた。

 1862年10月、孝明天皇の侍従に就任。

 1863年、中川宮や薩摩藩・会津藩による八月十八日の政変では、三条実美壬生基修三条西季知東久世通禧錦小路頼徳澤宣嘉と失脚して七卿落ちしたが、1867年12月、王政復古により許されると復帰。

 その後、戊辰戦争では、仙台追討総督、奥羽追討平潟口総督を務め、長州藩士・木梨準一郎や鳥取藩士・河田景与らを参謀につけて、仙台藩を降伏に追いこんだ。
 この功績により永世禄300石となり、明治2年7月には、陸軍少将に任ぜられた。

 その後も、帝国陸軍軍人として重職を歴任し、尊皇攘夷派の公家の中でも唯一の武人となった。


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 明治5年1月、大阪鎮台司令長官。
 1874年(明治7年)4月、名古屋鎮台司令長官。
 1877年(明治10年)5月、大阪鎮台司令長官を10月まで兼任。
 1880年(明治13年)の仙台鎮台司令長官。
 1881年(明治14年)2月に陸軍中将、元老院議官に就任。

 1884年(明治17年)7月には伯爵、次いで1891年(明治24年)4月に侯爵に昇爵し、貴族院議員となった。
 1893年(明治26年)12月、予備役。

 1898年(明治31年)11月24日、薨去。71歳。

 なお、先妻は銈姫(黒田長溥の養女、実父は奥平昌高)であったが不仲のため子供はおらず、銈姫の死後、長年面倒を見ていた京都祇園の舞妓・春子(中井好馬の長女)を、土方久元の養女として後妻に迎えた。

 (参考) Wikipedia

三条実美  尊王攘夷派の公家で明治天皇を補佐した太政大臣
孝明天皇とは 終始「攘夷」を望んだその生涯と毒殺説



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高田哲哉日本の歴史研究家

投稿者プロフィール

高田哲哉と申します。
20年以上、歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して史跡も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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