松平春嶽の解説 越前福井藩主で幕末期に活躍した名君・松平慶永




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松平春嶽とは

松平春嶽(まつだいらしゅんがく)は、田安徳川家の第3代当主・徳川斉匡の8男として、幕末の1828年9月2日に江戸城内の田安屋敷にて生まれた。
母は側室である、お連以の方(はれゐ、閑院宮家司・木村政辰の娘)。

幼少の頃から伊予松山藩主・松平勝善の養子となることが内定し、松平慶永は11歳のときである1837年には正式決定した。

しかし、1838年7月27日、越前福井藩主・松平斉善が若年で突然死去すると、福井藩先々代藩主・松平斉承の正室・松栄院(浅姫)や、第12代将軍・徳川家慶(松平斉善の兄)は、急遽、松平春嶽を亡き松平斉善の養子として、福井藩を継がせた。
元服すると松平越前守慶永を称したが、生涯愛用の雅号「春嶽」が有名なので、このページではすべて松平春嶽で通させて頂く。

16歳になった際、福井に初入国したが、この時の福井藩の借金は90万両。
松平春嶽は近侍御用役に中根雪江や、村田万寿、橋本左内由利公正らを有能な藩士を登用しただけでなく、熊本藩士・横井小楠も顧問として招くと、藩校明道館を創設。
他にも殖産興業、洋式兵制の導入、種痘館の設置など藩政改革を先導した。


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下記は、福井城の脇にある福井神社境内の松平春嶽の銅像。

松平春嶽の銅像

正室には熊本藩主・細川斉護の娘・勇姫を迎えている。

徳川幕府の幕政にも関与

1853年にペリー提督黒船来航となると、水戸の徳川斉昭や薩摩藩主・島津斉彬山内容堂らと共に海防強化や攘夷を主張したが、老中の阿部正弘らと交流して開国派に転じ、13代将軍・徳川家定の将軍継承問題では一橋徳川家の徳川慶喜を後押しした。

しかし、徳川慶福を推す南紀派の彦根藩主・井伊直弼が大老に就任すると、後継は徳川慶福に決定。
また、幕府が朝廷の勅許なしでアメリカとの日米修好通商条約を調印したため、松平春嶽は徳川斉昭らと江戸城に赴いて大老・井伊直弼に抗議したことで、1858年7月5日、不時登城の罪を問われ、強制的に江戸霊岸島邸へ隠居させられて謹慎処分を受けただけでなく、腹心・橋本左内も安政の大獄により刑死している。

桜田門外の変で井伊直弼が暗殺されると、1862年4月に幕政に参加し、新設の政事総裁職に就任。
そして、徳川慶喜とともに京都守護職を設置して、会津藩主・松平容保をその任に充て、皇女和宮の降嫁、将軍・徳川家茂の上洛など公武合体政策を推進した(文久の改革)。
これらは熊本藩から招いていた横井小楠の意見も聞き、洋式軍制の採用、幕府職制の改正、参勤交代制の緩和、諸大名の献上物の自粛など幕政改革にあたっていた。

1863年、京に上洛するも長州藩などの尊王攘夷派が勢力を強めており、徳川慶喜が尊王攘夷派と妥協して攘夷実行を受けようとしたため、政事総裁職を辞任して福井に戻った。



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その後、福井藩では挙兵上京して攘夷派を駆逐しようと決定したが、藩内外の反対派の活動や他藩や朝廷・幕府との連携が弱まり中止。

しかし、そんな気運が効して「八月十八日の政変」にて京都から長州藩・尊攘激派が一掃され、禁門の変で長州藩が朝敵となると、徳川慶喜、松平春嶽、島津久光、伊達宗城、山内容堂、松平容保ら上京諸侯による「参与会議」が設けられたが、徳川慶喜と意見が対立し、成果を挙げられず崩壊している。

第二次長州征討の最中、第14代将軍・徳川家茂が大坂城で急死し、徳川慶喜が15代将軍に就任。

1867年には、島津久光の命を受けた西郷隆盛から説得を受けた山内容堂、宇和島藩主・伊達宗城、そして薩摩藩家老・小松帯刀の説得を受けた松平春嶽で四侯会議が開かれ、徳川慶喜と交渉した。
これにより政治の主導権を、徳川慶喜から雄藩連合側へと奪取を試みたが、徳川慶喜の巧みな政局操作により失敗。

その結果、薩摩藩は強硬な倒幕側へ傾き、土佐藩は反対に幕府擁護の姿勢となった中、徳川慶喜は大政奉還を行うと、松平慶永(松平春嶽)は大政奉還に賛同している。

1867年12月9日、王政復古の大号令が発せられると、松平春嶽は朝廷より議定に任命されたが、薩摩・長州の討幕運動には反対を唱え、徳川家存続を務めた。
しかし、鳥羽伏見の戦いとなり、徳川慶喜は朝敵とされ、奥羽越列藩同盟が結成されると、新政府とはいえ、政府に反抗する動きは容認できいとし、長岡藩に対する新政府軍として福井藩は兵を投入した。



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明治維新後は、新政府において内国事務総督、民部官知事、民部卿、大蔵卿などを歴任。

明治3年(1870年)に政務を退いたあとは「逸事史輔」などの幕末維新史記録を執筆した。

1887年、正室の勇姫が死去。
松平春嶽も明治23年(1890年)6月2日、東京小石川区関口台の邸宅で死去した。享年63歳。

墓所は品川区の海晏寺である。

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高田哲哉日本の歴史研究家

投稿者プロフィール

高田哲哉と申します。
20年以上、歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して史跡も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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コメント

    • 高田哲哉
    • 2015年 8月 15日

    大変お待たせ致しました。
    ご先祖さまについてお調べしてみましたが、残念ながら、関わり合いなど、手掛かりすら1つ見つける事もできませんでした。
    頂いた情報からでは、全くを持って不明でしたので、ご回答申し上げます。

    • 高田哲哉
    • 2015年 8月 10日

    林さま、この度はコメント欄へのご投稿、誠にありがとうございます。
    素晴らしいご先祖様をお持ちのようですね。
    幕末期は専門ではありませんので、お役に立てるかどうかわかりませんが、お調べしてみます。
    なお、誠に申し訳ありませんが、今回のように先に調査をご依頼頂いております案件がございますので、順番に対応する関係で、ご報告までちょっとお待たせいたします。
    また、ご期待に添えるかどうかも分かりませんが、できる限り頑張って見ますので、よろしくお願い申し上げます。
    このコメント欄にて後日、ご回答予定となります。詳しく分かった場合にページを設けた旨、記載させて頂きます。

    • 林 正則
    • 2015年 8月 10日

    私の曽祖父は井筒といい春獄のもとで宮中との用向きで重い仕事をしていたと聞いています。
    それゆえか、祖父は多数の名刀、書画を収集、北海道移住のさい持参しておりました。
    今でも渡辺崋山など我が家に残っています。曽祖父の名は歴代林 正三と言います。
    なにか判明したらお教え下さい。なお福井市の、うに販売天たつという店は曽祖父の縁戚で
    明治以来宮内庁ご用達を先祖井筒家のおかげでつづけているそうです。
    私の先祖の井筒と福井藩とのかかわりが少しでも判ればお教えください。

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