5分でわかる土佐藩「吉田東洋」の波乱な生涯と私塾・鶴田塾


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吉田東洋(よしだ-とうよう)は、幕末の土佐藩にて、藩政改革を指導した土佐藩の上士(上級藩士)です。

吉田東洋は、どのような人物でどんなことをしたのか?、できるだけ簡潔にまとめてみました。

1816年に生まれた吉田東洋の吉田家は、戦国時代には長宗我部家に従っていた重臣で、関ケ原の戦いのあと、高知城に入った山内家が三顧の礼をもって家臣に加えたと言う吉田氏の子孫となります。
この吉田氏に関しては下記にて触れております。

吉田東洋に繋がる長宗我部家の重臣「吉田氏」は優秀な一族であった

吉田東洋は土佐藩上士・吉田正清(馬廻格・200石)の四男として生まれましたが、庶兄が早世したため、嗣子となり、1841年に家督を継ぎました。

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さっそく、船奉行として土佐藩に出仕し、のち郡奉行となると藩主・山内豊熈(やまうち-とよてる)の藩政改革に参与しています。
病気のために一時藩政から退きますが、1847年には復帰したのも束の間、1848年に、山内豊熈が34歳の若さで死去し、山内容堂(やまうち-ようどう)が15代藩主となると、約3年間、土佐を離れて外遊し、京などを訪れました。
その後、 1853年に山内容堂から仕置役(参政職)に起用されて、富国強兵論などを主張した藩政改革を行います。

しかし、保守派の反対にあい、山内家姻戚である旗本・松下嘉兵衛に対して、酒宴の席で無礼をしたため失脚し、1855年、謹慎となります。
この時、吉田東洋は、高知郊外に私塾(少林塾・鶴田塾)を開きました。
このページトップの写真の場所が、鶴田塾跡となります。
鶴田塾では、後藤象二郎、乾退助、福岡孝弟、岩崎弥太郎などが学び、のち「新おこぜ組」と呼ばれる改革派の原動力となります。

1857年によるされて、吉田東洋が藩政に復帰すると、藩の参政となる後藤象二郎、福岡孝弟らを起用し、流通機構の統制強化・洋式兵器の採用など改革を断行しました。
しかし、急激な改革は、保守派や尊皇攘夷を唱える土佐勤王党と対立する形となります。

その結果、1862年4月8日、帰宅途中に帯屋町にて、武市半平太の命を受けた土佐勤王党の那須信吾・大石団蔵・安岡嘉助から襲撃されて暗殺されました。享年47。
この暗殺事件のわずか15日前には、坂本龍馬が土佐藩を脱藩するなど、情勢は緊迫していました。
高知城の二の丸にて、藩主・山内豊範に「日本外史」「信長記」として本能寺の変を講義していたのですが、最後の講義だったので、終わったあと酒肴にあずかり、亥の刻(22時頃)雨の中の帰り道に襲撃されたと言います。

吉田東洋が殺害された場所には「吉田東洋記念之地」の石碑があると言う事で、撮影しに行ったのですが、小生の訪問時には下記のような状況でした・・。

吉田東洋の首は「ふんどし」に包まれて「雁切橋」のたもとなる、鏡川の河原に晒されました。

その後、武市半平太は家老らと協力して、謹慎していた山内容堂に代わり、藩政を掌握しています。

なお、吉田東洋の墓は筆山公園の墓地にあります。

鶴田塾跡や吉田東洋記念之地がある場所は、当方独自のGoogleマップ「高知」の部分にて印をさせて頂いておりますので、ご参考賜りますと幸いです。

吉田東洋に繋がる長宗我部家の重臣「吉田氏」は優秀な一族であった
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