江戸時代の銭湯は混浴?だった 

 徳川家康が江戸に入った翌年、1591年に伊勢与市と言う人物が銭瓶橋(ぜにかめばし)(今の江戸橋附近)に銭湯風呂屋を建てたのが、文献上で見える江戸の銭湯の始まりです。

 富士山が噴火して火山灰が降ったり、少し風が吹くと砂埃が舞い上がる「江戸の街」でしたので、江戸に幕府が開かれると、庶民の間でも「銭湯」は欠かせない文化となり、何軒も銭湯ができました。

 江戸時代の銭湯は「混浴」です。武家や豪商ですら、自宅に風呂を持てなかった時代で、現在のように男湯・女湯と言う概念は無く「男女入れ込み湯」と呼ばれました。

日々の生活にhappyをプラスする|ハピタス これには理由があって、まず大量の水の確保が困難ですし、薪も高価で、お湯を沸かすのも大変な労力を必要とします。
 その為、大きな湯船は1つと言うのが現実的であった事と、もちろん、建設費用も考えると、男女別の浴槽と言う訳にはなかなかいかなかったようです。

 この頃の銭湯の湯船は蒸し風呂の一種の「半身浴」であり、上半身は湯気で蒸す仕組みで、せっかく暖めた熱を逃がさないため、どの銭湯も蒸気が逃げにくい構造でした。
 浴槽への出入は「ざくろ口」と呼ばれる、天井から低く板をさげた入口で、皆、かがんで出入りしました。
 換気扇やガラス窓など、当然無い時代ですので、蒸気が逃げにくいと言う事は、外部と接しない構造である為、とても「暗い」暗闇の空間だったのです。

 その為、混浴と言う事でも、お互いの体が良く見えるような具合では無かったようであり、女性でも裸が恥ずかしいと言う反応は今のようになかったようです。
 最も、街中での日常生活においても、当時の婦人達は、気温が高い時だと裸体になって農作業したりもした時代ですので、当然、銭湯でも胸を隠したりすることはなかったのでしょう。これは現代のアフリカなどの部族でも、見受けられるのと同じです。
 しかし、銭湯では若い女性に対して、いたずらする男性が少なからずいたのも事実だったようです。

 江戸時代の罪人は、罪を犯した証拠として体に刺青をされたりしていたので、結婚する前の男女がお互いに刺青が無いか銭湯で確認したと言う使われ方もありました。

 銭湯が発達すると、2階は庶民の社交場となり、武士は刀を預けて囲碁・将棋に興じ、庶民は歌舞伎役者の話など様々な話題が飛び交うような一種のサロンになったようですが、2階から浴室は丸見えだったようです。

 でも、はやり混浴は問題であるとして、1791年、老中・松平定信の寛政の改革で、銭湯の混浴を禁じました。
 銭湯業者は近所の同業者と相談して、日替わりで男女別の入浴にしたりしましたが、売上が大きく減った為、商売にならず、脱衣所・洗い場・浴槽を簡単な板で仕切り、男女別としました。
 しかし、お湯の中を潜れば仕切りの向こう側に行けたと言います。
 その為、更に厳しくするため、1842年の天保の改革で、仕切り板なども禁止しましたが、水野忠邦が失脚すると、世界有数の人口と経済力を誇る大都市「江戸」の銭湯は、元の混浴銭湯に戻りました。

 銭湯は朝から開店して、午後16時には閉店していましたが、銭湯には1600年頃から「湯女」(ゆな)と呼ばれた、垢すり・髪結い・衣服の世話をする女性がいました。
 この湯女がいる銭湯は大いに繁盛して、やがて16時までの風呂の世話だけでなく、銭湯の2階休憩所にて16時以降は、客の酒の相手まで行うようになり、更には色売女代わりもするようになって行き、吉原の中にも風呂屋ができるくらいでした。
 その為、江戸幕府は1637年に、1店につき3人以上の湯女を置くことを禁じましたが、徹底されず効果はなかったようです。

 文化・文政期の江戸の湯屋は600軒。入浴料金は6文(90円)。2階の座敷の方が高くて12文(180円)。湯女は200文(3000円)から。

 丹前風呂(たんぜんぶろ)に象徴されるように、湯女営業する銭湯は増々繁盛します。
 丹前地区(神田)にあった風呂屋には桔梗風呂、山方風呂、追手風呂などがありましたが、「桔梗風呂」の湯女・吉野(丹前節という小唄の流派の元祖とされる)、「紀伊国屋風呂」の湯女・市野、「紀伊国屋風呂」の勝山、「山方風呂」の幾夜、「追手風呂」の淡路、「山方風呂」の柏木という唄や芸に優れた湯女も現れました。
 この「丹前風呂」に通う客は、男伊達を気取っていたので、歩き方、手足の振り方に特殊なスタイルが生まれ、のち歌舞伎での花道での歩き方にも影響を与えています。

 1615年頃からは、上半身もお湯に浸かれる銭湯も登場し始めました。

 1640年に幕府公認の遊郭「吉原」が夜間営業禁止となった事もあり、夜、暇になった遊女が銭湯で湯女をすることもあったようです。
 1657年、明暦の大火が発生し、吉原遊郭が浅草の新吉原に移転するのを契機に、江戸幕府は風紀上の理由から湯女を禁止し、新吉原の中での風呂屋も禁止しました。
 この時、丹前風呂を含め、風俗営業する銭湯200軒も廃業・取り壊しとなり、紀伊国屋風呂の勝山、山方風呂の幾夜ら、湯女600名が新吉原に移っています。

 このようにして、湯女がいる銭湯は無くなりましたが、引き続き普通の銭湯は江戸庶民の「いこいの場」として現代に至っています。

 明治時代に入ると、外国人から裸体での活動や、東京の銭湯が「混浴」であることは、良くないと指摘を受けます。
 西洋文化の押しつけでもありましたが、国際化を目指す日本としては、明治5年(1872年)に、人前で裸になる事を禁止しました。

 混浴禁止令に至っては、明治2年、明治5年、明治8年と複数回も混浴を禁じており、明治30年頃には完全に銭湯の混浴は無くなりました。

 明治時代に入ると、屋根には湯気抜きが作られ、ガラス窓の普及により採光も取られ、浴槽と板流しを平面し、洗い場も広くなるなど改良が加えられます。
 そして、大正時代に入ると木造からタイル張りとなり、昭和時代にはお湯と水のカランが取れ入れられるなどして、現在の銭湯の形が出来上がりました。

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