西郷頼母(2) 会津藩家老として新政府軍と戦うも惨敗 明治の頼母は? 


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← 西郷頼母(1) 幕末の動乱期に藩主・松平容保支えた会津藩家老 からの続きです

 会津若松に向けて、いよいよ新政府軍の侵攻が現実味を帯びてくると、会津藩は新政府軍が中山峠に殺到すると予測し主力を配置。しかし、新政府軍は、中山峠に陽動部隊800を送る裏で、板垣・伊地知が率いる主力部隊1300ら総勢2200が裏をかく形で脇街道で手薄な母成峠を8月21日に衝いた。
 母成峠の旧幕府軍守備隊は、峠から山麓にかけて築いた3段の台場と勝岩の台場に守将・田中源之進が率いる会津藩兵200と、大鳥圭介の伝習隊400、仙台藩兵100、二本松藩兵100、土方歳三が率いる新選組若干名が加勢し総勢800であった。


 8月22日、西郷頼母は登城し復職。水戸藩兵を率いて、冬坂(背炙り山)を守備した。
 松平容保自らも白虎隊(士中二番隊)などの予備兵力と共に滝沢本陣まで出陣したが、たった1日で会津領内への侵攻を許す結果は想定外で、戸ノ口原の戦いで新政府軍が会津軍を破って滝沢峠に迫ったとの報告を受けると翌日、若松城へ帰城した。
 白虎隊出撃の際、西郷頼母の妻・西郷千恵子は、出陣のため城に向かう途中で挨拶に立ち寄った甥の飯沼貞吉(白虎士中二番隊)を励まして見送っている。

 新政府軍は23日朝には江戸街道を進撃し、午前10時頃に若松城下へ突入。

 西郷頼母は冬坂(背炙り山)から急ぎ会津若松城に帰還し、会津藩主・松平容保に切腹を進め、鶴ヶ城にて全員玉砕を主張するも意見は折り合わない。

 同じ8月23日、西郷頼母邸では篭城戦の足手まといとなるのを苦にした、西郷頼母の母・西郷律子(58)、妻・西郷千恵(34/千恵子、千重子)2歳の西郷季子、三女の西郷田鶴子(8)、四女の 西郷常盤(4)、長女・西郷細布子(16)、次女・西郷瀑布子(13)、西郷頼母の妹2人(西郷眉寿子26、西郷由布子23)、祖母(80余歳)、居合わせた親族の小森一貫の家族5人、西郷鉄之助夫妻、軍事奉行・町田伝八とその家族2人、浅井新次郎の妻子2人など、21名がことごとく自刃するなど、会津藩は女性だけでも233名が自ら命を絶った。
 また、城下町で発生した火災を若松城の落城と誤認した白虎隊(士中二番隊の隊士の一部)は飯盛山で自刃するなど、若い命もいたずらに失われたのだ。

 8月26日、身の危険を感じた西郷頼母は城外の部隊へ伝令に行くと言い、11歳の長男・西郷吉十郎のみを伴い、城から脱出することとなった。
 障害なく城を出られ、途中、萱野権兵衛と会っても無事であることから、松平容保が西郷頼母の命を助ける形で伝令を頼み、西郷頼母を出奔させたとも考えらている。

 西郷頼母は越後口から引き揚げてくる萱野権兵衛、上田学太夫らに藩主からの命令を伝え、自分は米沢から仙台に至り、榎本武揚の海軍に合流した。
 榎本の軍艦開陽丸に乗艦して箱館に赴いたが、頼母はこの艦中で会津の開城降伏の報を聞くことになる。

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 その後も会津藩は若松城に篭城を続け、佐川官兵衛、山口二郎(斎藤一)らも城外での遊撃戦を続けたが、会津藩の劣勢が確実な状況になったことで、仙台藩・米沢藩・庄内藩ら奥羽越列藩同盟の主力の諸藩が自領内での戦いを前に相次いで降伏を表明。
 孤立した会津藩は明治元年9月22日新政府軍に降伏。旧幕府軍の残存兵力は会津を離れ、仙台で榎本武揚と合流し、蝦夷地(北海道)へ向かった

 薩摩藩の軍監・桐野利秋の計らいで松平容保は死を免れ江戸に蟄居。本来であれば家老上席にあった西郷頼母、田中玄清、神保内蔵助が切腹するところであったが、西郷頼母は行方知れず、神保と田中は既に自刃していたため、次席の萱野権兵衛が戦争の責任を一身に負って切腹した。
 生き残った会津藩の武士と家族約13000人は、青森県の恐山山麓一帯に強制移住させられた。
 松平容保が1872年に蟄居を許され、明治13年(1880年)には日光東照宮の宮司となり、明治26年(1893年)12月5日に東京・目黒の自宅にて肺炎のため死去した。享年59。孝明天皇から賜った宸翰と御製は小さな竹筒に入れて首にかけ、死ぬまで手放すことはなかったと言う。

 西郷頼母は会津を脱出後、榎本武揚や土方歳三と合流して箱館戦争にて江差にて新政府軍と交戦。
 函館に新政府軍が迫ると、西郷頼母は榎本武揚に対しても降伏することを勧めたが、やはり容れられなかった。
 旧幕府軍が降伏すると箱館で自ら新政府軍に投降し、館林藩預け置きとなり、しばらく幽閉された。

 1870年(明治3年)西郷家は藩主である保科家(会津松平家)の分家でもあったため、本姓の保科に改姓し、保科頼母となった。
 1872年(明治5年)に赦免されて伊豆松崎で私塾・郷学謹申学舎塾長を務めた。その後、福島県伊達郡の霊山神社で神職を務めるなどした。
 1879年(明治12年)長男・西郷吉十郎が病没。(享年23) 志田四郎(姿三四郎のモデル)を養子とした。
 1899年(明治32年) 霊山神社の宮司を辞し、郷里の若松に戻った。

 辞職後は東京に移り、在京の旧藩士小森駿馬・加藤寛六郎、館林幽閉中に世話になった塩谷良翰の宅などを往来した。
 
 1903年(明治36年)に会津若松の十軒長屋で74歳で死去。墓所は妻・千重子の墓とともに、会津の善龍寺にある。

 会津藩は実験経験がある家老格や、これまでの戦いで武勇を馳せた人材がいたにも拘らず、実戦経験がない西郷頼母を白河口での司令官にするなど、結局は古い考えである「身分」を重んじた登用が行われた。
 幕末の会津藩にも見識高い若い優秀な人材がいたが、実績を残さない者が新しい事を唱えたり導入を促したりしても、結果的に優秀な人材の意見を取り入れることが困難な体質で、ようやく古い考えから脱却した際には、既に会津城下に敵が迫っており、時すでに遅かったのであると考える。
 このような古い考えの中、藩の安泰を第一に考えて、早い段階から西郷頼母は「恭順」するように説得していたのである。

 会津の地で「戦争に負けた」と言うのは、第2次世界大戦でアメリカに負けたと言う事を指すものではなく、戊辰戦争で薩長(新政府軍)に敗れたことをいう。
 会津藩の最後まで幕府に忠誠を尽くすと言う姿勢は、まさに「武士道」であり、死んで後世の審判を仰ぐと言う、自分の正義を貫いたものだと存ずる。

 西郷頼母の武家屋敷は、会津若松の東山温泉近くに一部が復元され「会津武家屋敷」として現在公開されている。

 (参考文献)  ウィキペディア、NHK大河ドラマ

 

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