毛利敬親(2) 版籍奉還とそうせい候? 


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 その後、1865年、松下村塾出身の高杉晋作らが馬関で挙兵し、椋梨藤太俗論派(保守派)を打倒するクーデターを実行(功山寺挙兵)。
 これにより正義派(倒幕派)が政権を握り、高杉晋作らは奇兵隊や民間の軍事組織である長州藩諸隊を整備した。
 毛利敬親大村益次郎を登用して西洋式軍制を採用し、ゲベール銃やミニエー銃など新式兵器を調達。戦術の転換など大規模な軍事改革を行った。

 1866年、坂本龍馬の仲介で薩長同盟を結び、同年8月の幕長戦争(第二次長州征伐)に勝利。

 1867年、イギリスとの関係を改善し、10月には討幕の密勅を受けた。

 そして同年11月には薩摩藩らと共に官軍を組織して京へ進軍。
 王政復古のクーデターを成功させた。

 毛利敬親は1868年5月に上洛し、明治天皇に拝謁して左近衛権中将に任ぜられると山口藩庁へ帰還している。
 明治政府が樹立されると、参議に就任。

 明治2年(1869年)1月、毛利敬親は薩摩藩・土佐藩・肥前藩と連署して版籍奉還を奉請。
 6月には権大納言の位を得て、養嗣子の毛利元徳と共に10万石を下賜された。
 6月4日に家督を毛利元徳に譲って隠居。
 明治4年(1871年)3月、山口藩庁内殿で死去。享年53。

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そうせい侯

 このように幕末の動乱期に長州藩では1年毎と言っても良いほど、保守派・改革派と政権が入れ替わり、毛利敬親は

 保守派が案を申し出ても「うむ、そうせい!」
 改革派が案を申し出ても「うむ、そうせい!」

 と、家臣らの意見には反対する事が無かったとされる。

 「そうせい侯」と呼ばれ評価が低いとも言われるが「版籍奉還」など将来を左右する重要事項には最終的な判断を下していたとされ、個人的な感想を述べさせてもらうと下記の通りだ。

 毛利敬親は、今で言う「会長気質」だったのではないだろうか?

 実務は自ら選んだ家老(社長)に任せて、実行するにも優秀な藩士を登用していた。要するに無能な家臣は近づけなかったと言える。
 毛利敬親の長州藩は、藩の教育として人材育成し、時には留学もさせており、適材適所で人材がとても活かされているのが特徴。
 例え過激すぎて牢獄に入るような事態となった藩士がいても、のちには許して復帰させているくらいの優秀な人材がゴロゴロしていたのだ。
 そんな優秀な長州藩の面々からの新企画(改革案)あれば、完成度は高く、特に横槍を入れるような愚案でもなく「そうせい」と言う事になったのだと小生は感じている。

 毛利敬親は、太っていて顔も腫れて神経痛で歪んでいたと言う。歩行も辛かったようだが、結果として難局を乗り切り、明治維新を成し遂げるきっかけを作った人物として、評価したい。

 

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