新島八重(山本八重) (3) 会津籠城戦の回想と川﨑尚之助との離婚理由


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籠城戦の回想

 山本八重は後年の回顧談の中で籠城の事を次のように述べている。

 「敵の総攻撃は九月十四日の早朝六時に始まり、毎日夕の六時頃迄は実に凄まじ い勢ひで砲撃しました。無論小銃弾も三方面より非常に来ましたが、大砲の音に消 されて少しも聞えません、只バッバラッと霰(あられ)の如く絶えず来て居ました。 それに頭上で爆裂するかと思ふと、却下に砂塵を揚げる、瓦は落つる、石は跳ぶ、 城中は全然濛々たる硝煙で、殆んど噎(むせ)ぶ様な有様、然し誰一人逡巡ふもの もなく、寧ろ反って勇気百倍、子供等は湿れ莚(むしろ)を以て縦横に馳せ廻って、 焼弾を消しては御握りと交換して貰ふ。婦人は弾薬の補充に奔走し或は傷者の運搬 救護等、其多困多難の有様はなんとも話になりません。妾(わらわ)も一寸の暇を 見て、有賀千代子さんと共に握飯を盆に盛り大書院小書院の病室へ運搬中、轟然一 発却下に破裂し、砂塵濛々として眼も口もあけず、呼吸も出来ず、暫時佇み漸く目 を拭ふて見れば、千代子さんも煙りの裡に立っては居るが其顔は全然土人形の怪物 そっくり、これには妾も可笑しくて抱腹絶倒をしました。然し千代子さんも妾の顔 を指さして笑ひこけて居ました。御握はと見ると又驚きました。全く蟻塚をそっく り盆に載せた様に塵一杯になって居たので、これには落胆しました」

 「それで籠城婦人は何れも、多少なりと怪我をして他の厄介になる様では、男子 の戦闘力を殺ぐ様になるから、其時には自刃をしやうといふ覚悟で、脇差か懐剣を 持たぬ人はありません。妾(わらわ)も介錯する人をもたのんで居ました。こんな 訳で仕度も身軽にし帯なども決して解けぬ様、細紐にて緊かり結んで居ました。そ んな風に何れも今日か明日か、最後の時には見事に、死際を立派にしやうと決心し て居ましたから、樹の枝にかかって死んだ婦人があるなどといふことは大変なまち がひと思ひます。妄(みだり)に文飾するから真相を脱するのであります。御承知 の如く何れの家庭にも、戦死戦傷者を出して居ます。妾の弟の三郎(二十一才)は 正月三日伏見で、父の権八(六十一才)は九月十七日一ノ堰にて戦死をして居ます。 籠城中の婦人は大概こんな境遇の人ばかりであるから、何れも死花を咲かせやうと 決心して居ったのであります」

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川﨑尚之助との離婚理由

 会津での戦いの最中、山本八重の夫・川﨑尚之助は行方不明となったとさける。
 以前は「藩籍を持たないために、開城に先立って城外に去っていた。」あるいは「追い出された」とも考えられていたが、それを証明する資料は発見されていないため、現在は「行方不明になった」という表現が使われている。
 その後は、江戸に行き、塾で教鞭をとったという説が有力だったが、これも詳細不明。
 会津戦争後、困窮する山本家が仙台に一家揃って出稼ぎで移住した際の戸籍に、山本八重は川﨑尚之助の妻と言う記載があるとも言う。
 2011年12月に札幌市の北海道立文書館で、会津藩の公文書など40点が発見され、他の会津藩士たちと共に川﨑尚之助も北海道の斗南に行ったという説が浮上した。
 それは、川﨑尚之助が斗南藩の貧しさを何とか救おうと奮闘する記録が、そこに記されていたからだ。
 しかし、 離婚に関する理由は謎が多い。

 山本八重の兄・山本覚馬が川﨑尚之助を何度も「会津藩士」へと願っていることから、山本八重と結婚させる事で、会津藩士になることを画策した経緯があった?ことも考えられる。
 1つ言える事は、多くの会津藩士が鶴ヶ城開城の際に、妻子と離婚した。新政府軍に負け「逆賊」と言う汚名を着せられ、将来の夢も希望も無い会津藩士として、妻や子を開放し、自由の身にさせると言う「愛情」があったのではと、私は感じずにいられない。
 実際に多くの妻たちが自由の身となり、裕福な商家などと再婚できていた。
 山本八重自身も、離婚歴を隠そうとしたことは1度も無いようで、川﨑尚之助との結婚は失敗だったとは思っていない可能性が高い。

 (参考文献)  同志社女子大学、学校法人同志社、ウィキペディア、戊辰戦争百話、あらすじと犯人のネタバレ、NHK大河ドラマ、福島県観光交流局

 

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