過去の記事一覧
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禁門の変とは
禁門の変(きんもんのへん)は、長州藩が京都での復権を目指して、会津藩の排除を挑んだ武力衝突で、1864年7月19日、京都御所付近で戦闘となった。
蛤御門が禁門の変の最大の激戦地になったことから、蛤御…
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近藤周助(こんどう-しゅうすけ)は、1792年に名主・嶋崎休右衛門の5男として生まれた。
幼名を関五郎、その後、嶋崎周平、嶋崎周助と嶋崎周助と改名。
この嶋崎家(島崎家)は、武蔵国の多摩郡小山村字三つ目…
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12代・和泉守兼定(いずみのかみ-かねさだ)による土方歳三の愛刀は2尺3寸1分6厘。
会津の名刀匠である兼定は、会津御抱鍛冶であり、会津藩主・松平容保の上洛に従って、京都で刀を作っていた。
ただし、京に行っていた…
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小島資料館
試衛館時代の近藤勇・土方歳三・沖田総司らが、度々出稽古に訪れていた小野路(東京都町田市)の名主が、この小島鹿之助さんでした。
収入が乏しかった試衛館にとって、出稽古は貴重な収入源でもありました。
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土方歳三資料館
東京都日野市の国道20号の日野バイパス近く、多摩モノレールの「万願駅」からほど近いところに「土方歳三資料館」があります。
そうです。新選組の副長として京だけでなく、近藤勇の死後も、会津・函館と旧幕…
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新選組の副長・土方歳三と、局長・近藤勇。
若きリーダーである近藤勇を、一番良く理解した土方歳三が支えたと言う。
普通に新選組を語るのであれば、局長であった近藤勇が先に来て「近藤勇と土方歳三」と言う風になると存ずる…
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平野国臣(ひらの-くにおみ)は、福岡藩士(足軽)である平野吉郎右衛門の二男として、1828年5月12日に生まれた。
平野国臣は足軽鉄砲頭・小金丸彦六の養子になると、1845年に江戸詰めとなっている。
福岡へ戻ると…
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正親町公董(おおぎまち-きんただ)は、公家・中山忠能の子として、1839年1月24日に生まれた。
その後、正親町実徳の養子になっている。
なお、父・中山忠能は公武合体派の公家として活躍したことから、尊王…
ピックアップ記事
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勝海舟とは
勝海舟(かつかいしゅう)は幕末の旗本で、幼名・通称は勝麟太郎(かつりんたろう)と言…
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西郷従道(さいごう-じゅうどう、つぐみち)は、薩摩の加治屋町山之口馬場(下加治屋町方限)にて、184…
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