禁門の変とは~蛤御門の変の経緯などの詳細版


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 禁門の変(きんもんのへん)は、長州藩が京都での復権を目指して、会津藩の排除を挑んだ武力衝突で、1864年7月19日、京都御所付近で戦闘となった。
 蛤御門が禁門の変の最大の激戦地になったことから、蛤御門の変(はまぐり)とも言う。

 なお、門の名前が「禁門」と言う門は存在しない。
 御所にあるいくつかの門のうち「蛤御門」で最大の戦闘が行われた。
 天皇の住まいである御所は、侵してはいけないと言う「禁裏」(きんり)とも呼ばれた事から、御所にあるすべての門は「禁門」と呼ばれ、この戦いの総称として「禁門の変」と言われる由縁となっている。

 さて、戦の経緯としては、1862年以来、攘夷主義を掲げ、公家・三条実美らに資金援助するなどして、朝廷での支配的影響力を有していた長州藩が、1863年の八月十八日の政変にて、中川宮・薩摩藩・会津藩から京都を追われて失権。
 七卿落ちだけでなく、長州藩主・毛利敬親と、子の毛利定広も官位剥奪の上、国許での謹慎を命じられるなど、主導権を失っていた。
 事態打開の為に積極策を主張した来島又兵衛真木保臣らがいた一方、桂小五郎高杉晋作久坂玄瑞らは当初慎重に行動するべきだと説いていた。

 しかし、1864年4月に薩摩藩の島津久光福井藩松平春嶽、宇和島藩の伊達宗城らが、京から離れたため、久坂玄瑞らはも強行に転じて長州藩世子・毛利定広の上京を請うた。
 そして、6月4日に長州藩兵約2000が上京開始。
 そんな中、6月5日に池田屋事件が起こる。

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 この時、池田屋にて長州藩を中心とした尊王攘夷派は、風の強い日に御所に火を放ち、その混乱に乗じて中川宮を幽閉。一橋慶喜と松平容保らを暗殺したうえ、孝明天皇を長州へ連れて行く事を計画の相談をしていたと言う。

 新選組は探索して尊王攘夷派の志士らが池田屋にいるのを突き止め、近藤勇沖田総司、永倉新八、藤堂平助、土方歳三井上源三郎斎藤一島田魁らは襲撃する。
 そして、吉田稔麿宮部鼎蔵らが殺害され20数名の尊攘派が命を落とした。
 この時、桂小五郎は外に出ていた為、救われている。

 池田屋事件で更に窮地に追い込まれた長州藩では益田親施福原越後国司親相の3家老らが「冤罪を孝明天皇に訴える」と言う積極策を打ち出す。
 周布政之助、高杉晋作、宍戸真澂らは慎重論を唱えたが、長州藩は挙兵することになる。

 その結果、山崎の天王山を本陣として、益田親施や久坂玄瑞、浪士隊ら600も入る。
 宝山には国司親相、嵯峨天龍寺には、国司親相、来島又兵衛ら600、そして伏見長州屋敷には福原越後800が布陣した。

 ちなみに、天王山に入る際、関門守備の郡山藩兵に一度阻止されるも、たいしたことなく入った。
 この時、真木和泉らは近くに駐屯している郡山藩へ挨拶に行き「配下に不埒な振る舞いがあれば直ちに取り締まる」と約束している。
 これに対しては、郡山藩は「陣中見舞い」だとして、漬け物3樽を長州藩に送ってきたため、長州藩は仕方なく、返礼として伊丹の酒3樽を贈ったと言う、のどかなエピソードもある。

 京の長州軍は京都内外に陣を構え、藩主父子と五卿の赦免と入京許可、そして攘夷の国是確立の嘆願書を6月24日、朝廷に奉上。
 しかし、孝明天皇はあくまで長州勢の退去を命じた。

 7月12日、薩摩藩兵が京に到着すると、徳川幕府は諸藩に対して京都出兵を命じている。
 この長州軍に対する幕府軍は会津藩・薩摩藩だけでなく、大垣藩、桑名藩らも合わせると6万~8万の軍勢になったともある。
 しかし、久坂玄瑞らは、敵は松平容保と会津一藩だけであると、公家や京にいる諸藩に書状を出したため、かなりの効果を上げたと言う。

 7月17日、男山の石清水八幡宮にて長州藩最後の会議を行った。幹部らおよそ20人ほどが集まり、長州藩に味方する藩は1つもない孤立無援で兵力でも劣勢な中、どうするのか話し合いとなった。

 久坂玄瑞は朝廷からの退去命令に背くべきではないとして、兵を引き上げようと考えたが、強硬派の来島又兵衛は「進軍を躊躇するのは何たる事だ」「命を惜しいのか」と詰め寄る。
 最年長の真木和泉も進撃論に同意し、久坂玄瑞も陣に戻り、戦闘の準備を進めた。

 この頃、幕府・朝廷側も混乱はしており、7月17日夜、御所では長州派の公家である有栖川宮幟仁、熾仁親王父子、中山忠能、橋本実麗らが参内し、事態を収拾するために、京都守護職・松平容保の参内停止と京からの追放を上奏している。
 この長州派の公家らの上奏が受け入れられると、いわゆる「クーデター」となり、幕府は京から追い出されてしまう。
 一報を受けて危機感を抱いた禁裏守衛総督・徳川慶喜は、二条城から馬を飛ばして孝明天皇に拝謁すると、直々に長州討伐の勅令を賜った。

 この頃の京都の人口は50万人で、嵯峨広隆寺は加賀藩、太秦は膳所藩、向日町は小田原藩、伏見街道は大垣藩、東六条に水口藩・桑名藩、竹田街道は新選組。
 更に御所の御門である中立売御門は筑前藩、蛤御門は会津藩、南側は藤堂藩、清和院御門は加賀藩、下立売御門は仙台藩、堺町御門は越前藩、寺町御門は肥後藩、石薬師御門は阿波藩、今出川御門は久留米藩、乾御門は薩摩藩と万全の体制であった。
 更に、御所の周りは水戸藩、紀伊藩、彦根藩、岡藩が固めた。
 しかし、幕府もこれだけの大軍を統率するだけの能力には欠けていたと考えられ、各藩の武装も陣羽織から鎧兜、また小具足程度とまちまちであり、多くの藩は戦う意思が低かったと言う。

 
 (画像出典:面白きこともなき世を面白くさんより)

 長州と幕府との交渉は決裂し、1864年7月19日未明・午前0時に、長州の主力である伏見の福原越後800が鷹司邸を目指して進撃開始。
 長州藩は戦意が低そうな藩が構えている箇所を突破しようしたが、藤森神社に至った際、大垣藩から榴霰弾の大砲を撃ち込まれる。
 福原越後も大砲にて反撃し、一時は大垣藩兵を敗走されたが、宝塔寺門前に差し掛かったところで、街道の両側から砲撃を受け、福原越後が頬に銃弾を受けて負傷。
 これにより、福原隊は総崩れとなり、退却を余儀なくされたが、伏見の長州藩邸は彦根藩兵が砲撃しており、山崎方面へと撤退。竹田街道でも新選組・近藤勇や土方歳三らに敗れた。

 午前2時、天龍寺からは来島又兵衛、国司信濃らが一気に蛤御門めがけて進軍開始した。
 蛤御門では会津藩兵と激戦となり、薩摩藩・西郷隆盛らの援軍が到着すると敗れる。来島又兵衛は胸を撃たれ、自ら槍で喉を突くと介錯を受けた。
 この時、西郷隆盛も軽傷ながら被弾し負傷している。

 一方、真木和泉や久坂玄瑞らは遅れて、午前2時に天王山からけ出撃。
 途中、樫原の小泉家で朝食を取ると、桂川の渡しを利用して、東寺から京都市中に入った。
 到着時点で来島又兵衛の戦死や、福原越後の壊滅の報を受けたが、そのまま御所南方の堺町御門を攻めている。
 しかし、越前藩兵に阻まれ、久坂玄瑞、寺島忠三郎らは朝廷への嘆願を要請するため、鷹司邸に侵入。
 鷹司邸は会津藩兵に包囲されるに至り、久坂玄瑞と寺島忠三郎は自刃した。
 なお、入江九一は鷹司邸から脱出しようとした際に、越前藩兵に見つかり、顔面を槍で突かれて討死している。

 真木和泉は敗残兵と天王山に退却して17名で天王山に籠城したが、7月21日に会津藩と新撰組の攻撃を受け、小屋にて爆死した。

 長州藩は大敗し戦死者は265名。
 幕府側は会津藩60名、薩摩藩8名、桑名藩3名、彦根藩9名、越前藩15名、淀藩2名の計97名の被害であった。

 洛中は三日三晩、燃え続け、2万8千戸が焼失したと伝えられている。

 長州藩は御所に向けて発砲したと言う事で、朝敵となり、第1次長州征伐へと繋がる。

 (参考) 産経新聞、面白きこともなき世を面白く

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