七卿落ち 京から長州への経路(ルート)と詳細なその後


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 七卿落ち(しちきょうおち)について詳しくご紹介したいと思います。

 七卿落ちと言うのは、中川宮・薩摩藩・会津藩によるクーデターである、1863年8月8日の八月十八日の政変にて失脚した公家7人が、京都から長州に逃れた、すなわち「落ち延びた」事からその名がついています。

 この時、公卿だったのは 三条実美(27歳)と三条西季知(53歳)の2人です。
 その他の公家としては、四条隆謌(36歳)、東久世通禧(31歳)、壬生基修(29歳)、錦小路頼徳(27歳)、澤宣嘉(28歳)がおり、この7人を称して、七卿落ちとされます。

 孝明天皇は、上記7名を、八月十八日の政変により、禁足(外出禁止)の処分としました。

 その為、三条実美ら尊皇攘夷派の公卿7人は、8月18日に鷹司邸に集り、そのあと東山区にある妙法院の宸殿に移って、長州藩と今後の事を協議します。

 長州藩側の出席者は、毛利敬親の名代として上京していた岩国領主・吉川経幹益田親施(益田右衛門介)、山田顕義来島又兵衛久坂玄瑞、久留米藩士・真木保臣など。

 その結果、一度、長州に逃れて体制を整えようと言う事になり、益田親施が指揮を取り、8月19日未明に長州藩兵2000の警護の元、蓑笠に草鞋履きという姿で、大仏御殿妙法院から伏見方面へ進みました。

 摂津国芥川の旅宿に宿泊したあと、神戸を目指します。
 七卿は慣れない、草鞋(わらじ)で歩いたため、途中から三条実美と三條西季知の2人は、駕籠に乗ったと言います。
 長州藩と行動を共にしていた熊本藩士・河上彦斎も長州に向かいます。

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 8月20日には、前日から降り注ぐ雨の中、摂津国西宮に到着し、本陣に宿泊しました。

 8月21日、早朝に出発すると、兵庫津(兵庫港)に到着し、楠正成の墓に参詣。

 その後、真夜中に船に乗船しました。
 一番船には三条実美と側近の尾崎三良、二番船には三条西・壬生・四条・錦小路。
 三番船には東久世・沢。

 この頃、京都では壬生浪士組が武家伝奏により「新撰組」の隊名拝命となっています。
 なお、山田顕義は兵庫で別れて、その後の情報収集を行う為、大坂経由で京都へ一旦戻り潜伏したあと、長州へ帰国しています。

 七卿一行は、風が収まった翌日8月22日夕方に出航し海路、長州藩の三田尻港(山口県防府市)を目指しました。
 20艘、総勢400名の大船団であったと言います。
 翌日には牛窓に寄港。

 8月23日、長州藩士・近藤登一郎が京都から山口藩庁に到達し、長州に変を報告。
 山口の長州藩は、七卿と共に大阪にて朝廷に復職を願え出ようと方針を定めると、三田尻より急使として家老・根来上総と井原主計を、京から逃れてくる七卿へ派遣しました。
 しかし、行き違いとなり、失敗しています。

 8月24日、朝廷は、禁足の朝命を無視して京を出奔したとして、七卿の官位を停止。
 一方、一行はこの日の午後~夜に、鞆浦(福山市)に暫時寄港しました。
 蔵元だった中村家の主屋と朝宗亭に宿泊しています。(現在は太田家住宅)

 その後、三原や糸崎八幡浦などにも寄ったようだが、8月25日に航行したと考えられる大崎下島には、5人の公卿が立ち寄ったする屋敷(御手洗七卿落遺跡)がある。

 8月26日、前日夜からの暴風雨により、航海途中で船団ははぐれ、三田尻に16時頃到着したのは、3番船のみでした。
 東久世と沢は、ちょうど招賢閣に滞在していた監察使・正親町公董から水干の衣を借りて、招賢閣に入っています。

 1番船と2番船は笠戸島に避港して一泊したのち、徳山藩の徳山港(東浜崎)に入港。
 ここから三田尻までは約30kmであったため、商家にて休息し、結髪と入湯したのち駕籠に乗り、陸路で三田尻へ向かいました。
 途中、徳山の毛利元蕃屋敷で昼食を取り、福川で夕食を取ると、夜遅くに三田尻御茶屋(招賢閣)に到着し、合流しました。
 ※三田尻に入ったのは8月27日未明か?

 8月28日、真木和泉が七卿の使者として山口藩庁に赴いて、長州藩主・毛利敬親に下向の趣旨を伝え、復帰斡旋を依頼しました。
 以後、真木和泉と土方久元が七卿護衛として名が見られます。
 8月29日、毛利元蕃が招賢閣を訪問して歓待しています。

 9月1日、周布政之助が三田尻を訪問し、七卿に拝謁。
 9月2日、小田村伊之助(楫取素彦、小田村文助)も七卿に拝謁しました。
 京からやってきた笠間藩士・加藤有隣が京の様子を七卿に報告。
 9月3日、津和野藩士・福羽美静が七卿に面会して談判しています。
 正親町公董は。九州ろ肥筑へ下向するため、三田尻より出航しました。
 9月4日、長州藩の支藩である長門清末藩主・毛利元純が七卿に面会しました。
 また、正親町少将の下向の件で、佐久間佐兵衛が七卿らに面会しています。

 9月5日、土佐で父と妻に別れを告げて脱藩してきた中岡慎太郎が三条実美に拝謁し、土佐藩の状況を報告。
 9月6日 三条実美と東久世通禧が山口を訪問して、長州藩主・毛利敬親と毛利定広と対面し、湯田御茶屋に宿泊。
 翌日、三田尻招賢閣に戻る途中、土方久元らが勝坂関門にて出迎え、防府天満宮に参拝しています。

 9月9日、四条隆謌を除く6人の、官位停止の報が京都より届いています。
 ※四条隆謌の官位停止は遅れて、9月18日にもたらされています。
 9月11日、九州から戻った正親町公董が京都に行くと言うので、東久世卿・四條卿・沢卿が信書を託しています。
 9月15日、藩主・毛利敬親が三田尻に入り七卿に面会しました。
 9月19日、中岡慎太郎が招賢閣の七卿を訪問。
 9月20日、高杉晋作が七卿に拝謁していますが、この時、高杉晋作は長州藩から謹慎処分となっており、密かに訪れたのかも知れません。
 9月21日、中岡慎太郎が三条実美に拝謁すると使者となり、土佐へと密かに出発。

 9月25日、高杉晋作の奇兵隊150名が三田尻に転進し、招賢閣前庭にて七卿に閲兵。

 9月28日、平野国臣が七卿に拝謁し、生野での義挙を説得。
 10月2日、三条実美が山口を訪問している間に、澤宣嘉が三田尻を抜け出し、奇兵隊総管・河上弥市などと義挙のため生野へ向かいます。

 10月12日、兵庫にて平野国臣と沢宣嘉が、生野の変を起こしました。
 しかし、10月13日に沢宣嘉が離脱し、平野国臣の計画はとん挫し、10月15日までに鎮圧されました。

 10月25日、前原一誠が六卿に面会して引っ越しの打ち合わせをします。
 そして、10月26日、三条実美を除く五卿は興隆寺氷上山真光院に転居し、10月27日、三条実美は湯田の草刈屋敷に移住しました。

 孝明天皇は、藩主・毛利敬親と毛利定広を、官位剥奪の上、国許にての謹慎処分としていたことからも、本国の長州藩は最初から七卿を迎えるのに消極的だったようで、1864年に三条実美ら五卿を、長州から大宰府天満宮延寿王院に移すことを決定します。
 
 > 七卿落ちの原因となった八月十八日の政変についてはこちら

 (参考) 幕末山口諸人往来

三条実美  尊王攘夷派の公家で明治天皇を補佐した太政大臣

 

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