伊藤博文とは? 伊藤博文の偉業と人物像に迫る


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 伊藤博文(伊藤利助)は長州藩出身で、大日本帝国憲法を起草した中心人物であり、初代・内閣総理大臣などを歴任した政治家だが、その出身は百姓の出で貧しかった。
 しかし、父が長州藩士の養子となった事で、伊藤博文も足軽になり、吉田松陰松下村塾に入門し学んだ。
 幕末には桂小五郎(木戸孝允)、高杉晋作井上馨山県有朋らと倒幕運動に奔走。
 1863年には、入江九一野村靖の妹・入江すみ子と結婚するも、1866年に離婚し、下関の芸子だった梅子と再婚した。
 その後、井上聞多(井上馨)、遠藤謹助山尾庸三、野村弥吉らと共にイギリスに渡航して英語を学び見聞を広め、明治維新後は参与となり、要職を歴任。44歳で総理大臣に就任したのだ。
 そして、日本の近代国家造りに寄与し、日清戦争、日露戦争を経て韓国統監府の初代統監に就任するも、ハルビン駅で、韓国の民族運動家・安重根によって暗殺されたのだ。享年69。

 そんな伊藤博文の人物像や偉業・業績についてまとめてみた。

 吉田松陰からは「才劣り、学幼し。しかし、性質は素直で華美になびかず、僕すこぶる之を愛す」「政治の才あり」と称されていた。

 金銭にきれいで賄賂を使った事がないとされるが、元々、私財も乏したかったようで、明治天皇が臨時にお手許金を与える事もあった。
 しかし、伊藤博文は芸者好きで、明治天皇が苦言を呈したこともあったと言う。もちろん、妾腹の子もいる。
 明治天皇は伊藤博文の事を信頼しており、日露戦争開戦直前の御前会議当日の早朝には、急遽呼び出して考えを聞くなどし、伊藤博文に「東京から離れてはならぬ」と命じている。

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 女子教育の必要性も痛感しており、自ら「女子教育奨励会創立委員会」を創設し、東京女学館を設立。岩倉使節団で同じ船に乗っていた女子教育者の津田梅子とも交流があった。

 古来から毒魚とされる「ふぐ」が、明治維新後も食用禁止とされていたが、明治21年(1888年)に周囲の反対を押し切って下関にて食した際に大変気に入り、当時の山口県知事に、ふぐ料理を解禁するように指示して、ふぐの食用・商用のきっかけをつくったと伝わる。

 朝鮮を植民地にするかどうかの議論の際に、伊藤博文は下記のように述べたと言う。
 「朝鮮人はえらいよ、この国の歴史を見ても、その進歩したことは日本より遥以上であつた時代もある。この民族にしてこれしきの国を自ら経営出来ない理由はない。才能においては決してお互に劣ることはないのだ。然るに今日の有様になつたのは、人民が悪いのぢやなくて、政治が悪かつたのだ。国さへ治まれば、人民は量に於ても質に於ても不足はない。」
 と感想を言い、朝鮮人に対して敬意を持ち、植民地化に反対していたと言う。
 しかし、その敬意をはらっていた朝鮮にて朝鮮人に暗殺され、伊藤亡きあと結果的には翌年に日韓併合となってしまった。

 → 1分でわかる伊藤利助 (伊藤博文)

 → 伊藤博文の妻・伊藤梅子

 

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