伊藤梅子と伊藤博文 浮気する夫を献身的に支えた良妻賢母
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- 女性, 明治政府, 幕末
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伊藤梅子は1848年に、山口県赤間関城ノ腰に住む、木田久兵衛の長女として生まれた。最初の名は木田梅子。
17歳の頃、亀山砲台があった、亀山八幡宮境内のお亀茶屋にて、お茶子をしていた際に、伊藤博文と出会った。
当時、伊藤博文(伊藤俊輔)は、1865年に高杉晋作の功山寺挙兵の際、力士隊を率いると一番に駆けつけて参戦。
長州藩の俗論派である正規軍に勝利していたのだが、命を狙われていたと言う。
そのような中、伊藤博文(伊藤俊輔)は長州支藩・長府藩の攘夷派の襲撃を受け、亀山八幡宮の境内に逃げ込むと、お梅が匿ってくれたと言う。
その時、世話になり、またお梅の美貌に惚れた伊藤博文は、度々、2人で会った。
しかし、伊藤博文は、吉田松陰の松下村塾で一緒だった入江九一と野村靖の妹・すみ子と1863年に結婚していたので、お梅とは「不倫」と言う形になっていた。
ただ、実際問題、伊藤博文は明治天皇から注意されたほどの女性好きで有名で、芸者ともたくさん遊んでいる記録がある。
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桂小五郎と西郷隆盛・大久保利通らにより「薩長同盟」が結ばれる時節柄、伊藤博文は井上馨と共に最新兵器を購入する為、長崎にも出向いた。
その間に、お梅の父・木田久兵衛は、借金のかたに下関稲荷町の置屋「いろは楼」に、お梅を身売りさせてしまい、お梅は「小梅」として芸者見習となっていた。
しかし、この時、既に伊藤博文の子を身ごもっていた為、それらの事を知った伊藤博文は身請け申し出たが「いろは楼」の主人から、本妻・すみ子(入江すみ)と離婚するならと条件を突き付けられた。
元々、すみ子とは、そりが合わなかったこともあり、1866年に離婚したため、伊東梅子は継妻として結婚し二男二女を設けた。
伊藤梅子は、高熱にうなされたときでさえ、両脇に芸者を寝かせる事を欠かさなかったという伊藤博文の女性関係には一切口を出さず、桂小五郎(木戸孝允)の妻・木戸松子とともに「良妻賢母」と称され、芸者たちが帰る際には、必ず梅子がでてきて、反物などの土産を持たせ、また朝まで過した女には、翌朝、化粧や身の回りの世話までしたと言う。
伊藤梅子は明治17年の宮中制服改めの際、その調度の命を受けると言う栄誉も授かっている。
下田歌子から和歌を習い、もともと字など書けなかったのに、津田梅子からは英語を学ぶと、手紙も英語で書けるまでになったと言う努力家だ。
このように明治政府の元勲婦人としての教養を身につけ、鹿鳴館での社交もそつなくこなし、良妻として初代総理大臣をを支えた、初代ファーストレディがこの伊藤梅子である。
ハルピンで伊藤博文が暗殺された時には「国のため、光をそへてゆきましし、君とし思へど悲しかりけり」と寂しさをを詠んでいる。
その後、伊藤梅子は1924年(大正13年)4月12日に、77歳で永眠した。
・ 伊藤博文とは?
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コメント
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2015年 2月 27日トラックバック:おうの (谷梅処) 下関にて高杉晋作を世話した幕末の芸者
伊藤梅子ー良妻賢母のいきさつがよくわかりました。日常生活の様子もよくわかりました。伊藤博文はよく知られていますが、その妻(梅子)は知られていないと思います。
H.Sさま、この度はお忙しい中、コメントを賜りましてありがとうございます。
文才が無いものでお叱りを受ける事が多いのですが、久しぶりにお褒めに授かり、暖かい気持ちになりました。大変恐縮いたしております。
また、機会がございましたら、ご感想賜りますと幸いです。
伊藤博文のお人柄が良ーく解りました。
ありがとうございました。