おうの【うの】谷梅処~下関にて高杉晋作を世話した幕末の芸者


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 「おうの」(うの)は1843年に生まれた幕末の女性。

 萩城下の油商の娘とも、水戸浪士の娘だともいわれ、出自はよくわからない。

 名は「おその」「谷のぶ」とも言い、源氏名は「此の糸」(このいと)。
 明治に届け出た戸籍名は谷梅処(たにばいしょ)とされている。
 ※高杉晋作が処分を受けたあと「谷」の姓名であったことから谷を称した。

 いずれにせよ、家は貧しかったようで、1863年6月頃(11歳のとき)に下関の芸者屋に売られた。

おうのと高杉晋作の出会い

 15歳頃から芸者として座敷に出たようで、その後、20歳のとき、下関で奇兵隊を結成していた高杉晋作が遊びに来たようだ。

 高杉晋作には長州藩の山口奉行・井上平右衛門の娘である高杉雅子と言う正室がすでにいたが、当時、24歳だった高杉晋作は、おうのの美貌に惚れて、1863年に身請けした。

 おうのは素直な性格で、ちょっとぼんやりした愛しい女性と、妻の高杉雅子とは正反対だったようで、高杉晋作は下関に滞在した際、できる限りそばに置いたと言う。

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 功山寺挙兵に成功して、1865年3月には攘夷派が長州藩の政権を握ったが、下関開港を推し進めたことで、攘夷派・保守派の両方から命を狙われた高杉晋作は大坂や、四国・讃岐の博徒・日柳燕石のもとに逃げたたが、その際には三味線を抱えて、おうのも同行したと言われている。
 また、処分を受けた際には、おうのを豪商・白石正一郎に預けたこともあり、人が良すぎるおうのに対して「人になぶられぬよう気をつけよ」と忠告する手紙も出している。

 桂小五郎西郷隆盛によって薩長同盟が結ばれた1866年の2月には、高杉晋作の肺結核が悪化し、下関で看病していたおうのの所に、高杉家から高杉雅と高杉梅之進が訪れ、初めて対面している。
 この時、高杉雅とおうのとの板挟みにあった高杉晋作は、困り果てていると木戸孝允宛ての書状に記している。
 高杉晋作が福岡で世話になった野村望東尼も、おうのと高杉雅子との緩衝役になったようだ。

 その後、高杉晋作の病状が悪化した1867年3月下旬、父である高杉小忠太、高杉雅、子の高杉梅之進が再び下関に入ると、それまで看病していた「おうの」は遠ざけられ、そのまま高杉晋作は1867年4月14日、家族と山縣有朋らによって看取られた。

 高杉晋作の死後、まだ24歳くらいだった「おうの」は他の男と良い仲になって、高杉晋作の名を汚してい行けないと、山縣有朋の指示に従い、尼となって谷梅処(たにばいしょ)と名乗った。

 そして、山県有朋伊藤博文井上馨、木戸孝允などから経済的援助を受け、高杉晋作の墓を守って生きたと言う。

 一方、高杉晋作の高杉雅は、まだ20歳で美人でもあったが、高杉晋作が生前に伝えた「私が死んでも再嫁せず高杉家を守ってほしい」と言う手紙の言葉を大切に守り通している。

 なお、明治維新後に高杉家は東京に移住したが、おうの(谷梅処尼)とは手紙のやり取りを続けており、梅処尼が東京に出た時は高杉邸に宿泊もしている。
 そして、読み書きが出来ない「おうの」の代わりに、高杉雅が代書したと言う話も伝わる。

 明治17年に伊藤博文らが下関・吉田清水山の奇兵隊本陣跡に東行庵(とうぎょうあん)を建立すると、おうのはそこで引き続き菩提を弔った。

 明治42年8月7日死去。67歳。

 高杉晋作の墓が見える場所に、おうの(うの)の墓も建てられた。

 → 高杉雅子に関してはこちら
 → 同じように下関で芸者と仲良くなかった伊藤博文の女性の話はこちら

 

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