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山田顕義(やまだあきよし)は、長門国阿武郡椿郷東分(現・山口県萩市)で、長州藩士の大組士・山田七兵衛顕行(禄高102石、藩海軍頭)の長男として1844年10月9日に生まれた。
幼名は山田市之允(いちのじょう)。
山田家一門に村田清風・山田亦介・河上弥市らがいるが、大伯父・村田清風は藩政改革に手腕を振るった能吏である。

幼少の山田顕義は、無口でぼうっとしたところがあり、おまけに鼻水を垂らしても頓着しない風だったと言う。
そのため、幼少のあだ名は「はなたれ達磨(だるま)」であった。

1856年、松本村の新山直衛塾から学んだ。
2月、伯父・山田亦介の紹介で、中村九郎と竹内竹叢から兵学を教授されている。
3月、長州藩の藩校・明倫館に入学すると、師範の馬来勝平から剣術(柳生新陰流)を学び、1862年には柳生新陰流伝中許を得ている。
明倫館の秀才・富永有隣は、山田顕義のすぐれた文才を見抜いて賞賛している。

吉田松陰松下村塾には、1857年6月に入門した。この当時15歳で、門下生としては最年少であった。

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1858年、吉田松陰から「与山田生」(詩)「立志尚特異 俗流與議難 不思身後業 且偸目前安 百年一瞬耳 君子勿素餐」と立志の目標が書かれた扇面を与えられる。

立志尚特異  志を立てるためには 人と異なることを恐れてはならない
俗流與議難  世俗の意見に惑わされてもいけない
不思身後業  世の中の人は 死んだ後の業苦のことを思うこともなく
且偸目前安  ただ目の前の安逸を貪っているだけなのである
百年一瞬耳  人の一生は長くても百年 ほんの一瞬である
君子勿素餐  君たちは どうか悪戯に時を過ごすことのないように

1858年7月、伯父・山田亦介が隠居を解かれ、長州藩の軍政改革責任者に登用された。次いで、8月には父・山田顕行が、西洋航海術・運用術伝習のため、長崎海軍伝習所に派遣されている。

1862年秋、上京すると藩主・毛利慶親の跡継ぎである毛利定広の警護を務めた。
1862年12月、高杉晋作久坂玄瑞志道聞多(のちの井上馨)・伊藤俊輔(のちの伊藤博文)・品川弥二郎らとともに攘夷の血判書(御楯組血判書)に名を連ねた。
1863年3月31日、孝明天皇の攘夷祈願の賀茂神社行幸に際して、御前警護のため毛利定広に随行した他、4月11日の石清水八幡宮への行幸にも同様に随行している。

八月十八日の政変では長州藩兵として堺町御門の警備として大砲掛を担当。
しかし、長州藩が公武合体派に排除され、公卿・三条実美ら7人の長州亡命(七卿落ち)に同行した。
しかし途中の兵庫で別れると、大坂経由で京都へ一旦戻り潜伏して情報収集した後、長州へ帰国した。
萩に戻ると遊撃隊御用掛に任命され、普門寺塾で大村益次郎から西洋兵学を学ぶ。

1864年1月、高杉晋作と共に脱藩すると京に赴いた。
禁門の変(蛤御門の変)では山崎に布陣する浪士隊の久坂玄瑞・真木保臣らの陣に加わったが長州勢は敗北し、山田顕義も長州へ落ち延びている。
8月、太田市之進・品川弥二郎らと御楯隊を創設し、軍監となって下関戦争で奮戦するも長州藩は敗北した。
12月、伯父・山田亦介が処刑され、父・山田顕行は謹慎となった。このような対幕府恭順論の「俗論派」による藩支配に反対する高杉晋作が功山寺挙兵すると、参戦して勝利を収め、俗論派を排除した。

1865年1月、山田顕義らが小郡勘場を訪れ、諸隊への軍資金用立てを要求。2月には父・山田顕行が謹慎を解かれた。

1866年1月、父・山田顕行が長州藩海軍頭取に就任。
第二次長州征伐では長州藩海軍総督・高杉晋作から丙寅丸の砲隊長に任命され、6月に周防大島沖で幕府軍艦を奇襲攻撃。
7月、御楯隊司令として芸州口に転戦し数々の勝利を収めた。
なお、7月20日に将軍・徳川家茂の死去により第二次長州征伐は休戦となっている。

1867年5月、御楯隊と鴻城隊を合体した整武隊の総管に就任。9月には山口藩先鋒諸隊の総指揮官となった。
11月、薩摩藩から倒幕の出兵要請を受けた藩主・毛利敬親の命令で、全軍総督である毛利内匠の東征軍先鋒隊700人余とともに海路で京都に入った。
1868年1月、鳥羽・伏見の戦いにおいて、新政府征討総督・仁和寺宮嘉彰親王の副参謀に任命され、その用兵では能力をいかんなく発揮し緒戦を勝利に導いた。
7月には越後口海軍参謀となり長岡城攻略を支援した。
そして、榎本武揚らとの「箱館戦争」時には若干24歳でありながら、陸軍参謀兼海陸軍参謀として官軍を率いて五稜郭の開城に成功し、戊辰戦争の勝利に貢献した。

明治2年(1869年)6月、宮中において黒田清隆らとともに明治天皇に謁見し、戦功を賞されている。
陸海軍参謀の任を解かれ、新官制(太政官制)施行による兵部大丞に就任し、長州藩少参事兼任を命ぜられ、8月には山口に凱旋し、山田顕義と改名。
9月、維新の軍功により新政府から永世600石の禄を下賜されている。

しかし、大村益次郎の暗殺未遂により、藩命で急ぎ上京。
病床の大村益次郎より日本近代軍制の創設について指示を受け、11月には兵部少輔久我通久と連署で大村益次郎の遺策をまとめた『兵部省軍務ノ大綱』を太政官に提出した。
大村益次郎の継承者として大坂を中心とした兵部省確立に尽力する。

明治3年(1870年)、大村益次郎の計画に従い、大坂城跡に設置された大坂兵部省出張所と東京の本省とを往復する日々を過ごした。
5月頃から畿内限定の徴兵制(辛未徴兵)施行の政府有力者に働き掛けを開始する。これも大村益次郎の計画によるものであった。
9月には普仏戦争の観戦を強く希望したが、川村純義ら他の兵部省員等も希望した為、省務の停滞を危惧した大久保利通らの指示により許可されなかった。
この年、井上馨の養女で湯田温泉瓦屋の鹿島屋喜右衛門の長女・龍子と結婚。

明治4年(1871年)1月、大坂にて辛未徴兵を開始するも、5月には事実上延期となる。
これは徴兵の質及び、指導士官や施設の不足等の根本的な問題の為だった。7月、陸軍少将に任命された。

同年10月、アメリカへ渡航した岩倉使節団に兵部省理事官として随行。
サンフランシスコ、ソルトレイクシティ、シカゴを経由し、ワシントンD.C.に到着した。

明治5年2月(1872年3月)、岩倉具視らと別れて原田一道ら兵部省一行とともにフィラデルフィアの海軍施設などを見学後、フランスに渡った。
フランスではパリを中心に視察し、その後はベルリン、オランダ、ベルギー、ローザンヌ、ブルガリア、ロシアなど欧州各国で軍制を視察・調査。
ウィーン万国博覧会にも立ち寄り、明治6年(1873年)5月、マルセイユ港から日本への帰途に着いた。

このアメリカとフランスへの渡航により、山田顕義は日本の現状を打開すべく、進む先を大きく転換し、軍人としてだけでなく、教育を重視し憲法や法律整備に尽力する事となる。

明治6年(1873年)6月に日本に帰国。
陸軍少将の立場にいながら9月に「兵は凶器なり」と指摘した上申書(理事官功程)提出し、徴兵よりも先に法律を整備して教育の拡充優先をと、遊学中に山縣有朋らによって施行された徴兵令の延期を求めた。
7月、東京鎮台司令長官に任命されたが、11月には同職を解かれ清国特命全権公使に任命された。
山田本人に渡清の意思はなく、木戸孝允も大久保利通に対して同職の解任の働き掛けをしている。

しかし、明治7年(1874年)2月、江藤進平らにより「佐賀の乱」が勃発すると、赴任しないまま清国公使職を解かれ、乱鎮圧のため内務卿・大久保利通に同行して九州へ赴いた。翌年の3月に平定した。
1575年7月、山田顕義の戦術は「用兵の妙、神の如し」と評され、伊藤博文などの説得により、現役陸軍少将のまま司法大輔に就任。
帰国以来、山縣有朋と徴兵令施行などの意見衝突によって対立していた山田顕義は、陸軍少将の肩書きのみで陸軍に実質的な地位はなく、日本政府内で微妙な立場にあった為、政治家への転身を余儀なくされた。

明治8年(1875年)9月、刑法編纂委員長に就任。
明治10年(1877年)3月、西郷隆盛の西南戦争が勃発すると、司法大輔を辞職する覚悟で単身で京都に出張し、鎮圧出征を懇願した。
木戸孝允らの協力もあり、別働第二旅団長として出兵を命ぜられ、人吉攻略などを指揮。
この時、元会津藩士・山川浩も、山田顕義が率いる別働第2旅団に配属されていた。
同年9月、西南戦争終結し、同年11月、戦功によって勲二等を賜る。

明治11年(1878年)2月、刑法草案審査委員として法典編纂に従事。
同年11月、陸軍中将に昇格。
明治12年(1879年)7月、長男・山田金吉が誕生。
9月、参議兼工部卿に任ぜられた。
11月、工部大学校第一回卒業式で卒業生一人一人に証書を手渡している。
明治13年(1880年)2月、専任参議に就任。
3月、長男・山田金吉が早世。
明治14年(1881年)8~9月頃、独自の憲法草案である「憲法私案」を左大臣・有栖川宮熾仁親王に提出し、さらに改定したものを右大臣・岩倉具視に提出した。
同年10月、参議兼内務卿に就任。

明治16年(1883年)4月、東京府知事・芳川顕正に対し、衛生上の理由から、東京府においても下水道改良整備を示達。
同年12月、内務卿を辞任し、司法卿兼参議に就任。
明治17年(1884年)、伯爵を受爵。

明治18年(1885年)12月に内閣制度が発足すると、第1次伊藤内閣の司法大臣に就任した。
明治20年(1887年)、大日本私立衛生会会頭に就任。
同年10月、法律取調委員会委員長に就任し、民法・商法・訴訟法の編纂事業に携わった。関西法律学校創立にも尽力している。
明治21年(1888年)4月、引き続き黒田内閣の司法大臣に留任。
12月、民法、商法の各法案を黒田首相及び内閣に提出した。

伊藤博文・井上馨・山県有朋に次ぐ実力者となり、司法大臣として法整備を進めるなかで、日本の人種・習慣・風俗・言語など国家成立の要因、すなわち国体を明らかにするため、その基礎となる国典の研究の重要性を認識したことにより、明治22年(1889年)1月、皇典講究所所長に就任したうえで皇典講究所の改革を推し進めた。
教育も重視しており、10月4日、同所内に日本古来の法と外国の法を研究する教育機関として、日本大学の前身である日本法律学校を創設した。
12月、引き続き第1次山縣内閣の司法大臣として留任している。
明治23年(1890年)4月、民法中の財産編・財産取得編・債権担保編・証拠編、民事訴訟が公布。
7月 、皇典講究所内に国文・国史・国法を研究する教育機関として國學院を創設した。
10月、民法人事編・財産取得編中贈与・遺贈・夫婦・財産契約が公布されるも「民法出デテ、忠孝亡ブ」との民法典論争が巻き起こり、施行が延期される。
12月、商法施行延期の責任をとって、2度にわたり司法大臣の辞表を提出するが慰留される。

寝食も忘れて編さんした法典は、世の中には出なかったが、各国の法学者から高い支持を得ており、その後の日本の国際化に寄与。

明治24年(1891年)2月、司法大臣に復職し、5月、第1次松方内閣の司法大臣に留任。
直後に大津事件が発生した時は犯人・津田三蔵への死刑適用に奔走した。
6月、病気療養を理由に司法大臣を辞任した。
以後、翌年まで三崎の別荘などで療養と謹慎の生活を送る。

明治25年(1892年)1月、枢密顧問官に就任。
同年11月、但馬(兵庫県北部)にて、幕末の生野の変に敗れ21歳で自刃した再従兄弟の河上弥市(変名:南八郎、奇兵隊第2代総監)の最期の地に建立された碑に参拝した後、生野銀山を視察中に卒倒し、そのまま立てずに急逝。享年49。

正二位。勲一等旭日桐花大綬章。法名は顕忠院殿釈義宣空斎大居士。

「生きた。闘った。使命を全うした。人生に悔いはない」
これは、山田顕義が良く口にしていた言葉であり、山田顕義が自らの命を縮めてまで編んだ民法・商法の精神は、現在の日本の法律の中にも引き継がれている。

 

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