榎本武揚 蝦夷共和国総裁として新政府軍と果敢に戦った戊辰戦争


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榎本武揚(えのもとたけあき)は、幕臣・榎本武規(榎本円兵衛)の次男として1836年8月25日、江戸下谷御徒町(東京都台東区御徒町)にて生まれた。
この父は榎本家の株を買い榎本武由(榎本武兵衛)の娘・榎本みつと結婚して婿養子に入る前は、箱田良助と称した庄屋で、伊能忠敬の弟子でもあったと言う。

榎本武揚(榎本釜次郎)の兄の名は榎本鍋太郎であったが、これは父が「鍋と釜さえあれば食べていけるだろう」として名づけたと言う。

榎本武揚は幼少の頃より、儒学と漢学を幕府の昌平坂学問所で学び、15歳の時からは本所の英龍塾で江川太郎左衛門から蘭語を学び、ジョン万次郎(中濱万次郎)の私塾では大鳥圭介、箕作麟祥らと英語を学んだ。

1854年、19歳の時、箱館奉行・堀利煕の従者として蝦夷地・箱館(函館)に赴き、樺太探検に参加した。

徳川幕府は1855年より中古の外国軍艦を購入し初め、オランダの協力のもと、その操船技術を養う長崎海軍伝習所を創設し、第一期生としては勝海舟(勝麟太郎)、矢田堀景蔵など150人が学んだ。

その第2期生として、1856年、榎本武揚(榎本釜次郎)が入所。
国際情勢や蘭学など西洋の学問や航海術・舎密学(化学)など広く知識を吸収した。第3期には後の将軍典医・松本良順も学んでいる。

1858年には、築地軍艦操練所の教授となった。

ペリー提督来航以降、幕府にとっても西洋の学術・技術、軍艦導入は急務であり、大老・井伊直弼の意思を受け継いだ老中・安藤信正は、外国に留学生を派遣すること計画。
老中・久世広周はは最初、ハリスを通じてアメリカに交渉したが、南北戦争のために断られ、オランダへの軍艦発注と留学生派遣が決定した。

留学生は榎本武揚(榎本釜次郎)、沢太郎左衛門(澤太郎左衛門)、赤松則良(赤松大三郎)、内田正雄(内田恒次郎)、田口俊平。
そして、蕃書調所から津田真道(津田真一郎)、西周(西周助)、と、長崎で医学修行中の伊東玄伯、林研海、さらに中島兼吉ら鋳物師や上田寅吉ら船大工などの職人7名が、1862年9月に長崎からオランダ商船カリップス号にて出航してオランダ留学へ向かった。
ちなみに榎本武揚の妻は林洞海の長女・たつ(多津)である。

約7ヶ月後の1863年4月、オランダ・ロッテルダムに到着すると、長崎海軍伝習所で教官を務めていた、カッテンディーケ海軍大佐と、メーデルフォールト軍医の世話になる。
オランダでは国際法や軍事知識、造船や船舶に関する知識を学んだ他、1864年2月、赤松則良とともに、デンマーク戦争を観戦武官として観戦。
戦争を見聞した後、より強力な砲の必要性を感じ、エッセンのクルップ本社を訪ねてアルフレート・クルップと交渉。
徳川幕府が発注しオランダで建造中だった「開陽丸」に搭載する大砲を、当初より強力な18門のクルップ施条砲を搭載することに成功した。

ドルトレヒトのヒップス・エン・ゾーネン造船所で完成した開陽丸は、当時のオランダ軍人も「これだけの船はまだオランダに無い」と言った最新鋭艦で、クルップ施条砲も射程距離3900mの成果を上げている。
このクルップ施条砲は、日本名を克式と言い、明治に入ると日本でも多数製造され、日露戦争でも多数のクルップ式火砲が運用されている。
更に第2次世界大戦で無敵を誇ったドイツのタイガー戦車の砲もこのクリップ社製であり、日本軍が使用した高射砲もクリップ社のライセンス品(九九式八糎高射砲)である。

話がそれたが、榎本武揚は、1866年10月25日、開陽丸に乗船し帰国の途に着くと、1867年3月26日朝10時30分に横浜港に入港。

軍艦奉行・勝海舟らに出迎えられた。
幕府陸海軍総裁に勝海舟が就任すると、31歳になっていた榎本武揚は軍艦頭並に登用され、オランダ海軍の例に習い、階級によって服装を分けた軍服を制定して各隊員に支給したと言う。

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戊辰戦争

しかし、この1867年は既に倒幕が加速していた。
中岡慎太郎板垣退助、谷守部、小松帯刀西郷隆盛らは倒幕への準備を進め、後藤象二郎坂本龍馬と西郷隆盛・大久保利通らは薩土同盟を結び武力討伐を約束。
10月には、徳川慶喜が朝廷に大政奉還。11月には坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺され、12月には王政復古となった。
榎本武揚は開陽丸に乗船し幕府艦隊を率いて兵庫沖に展開。そして、1868年1月、鳥羽伏見の戦いとなると、将軍・徳川慶喜に謁見し幕府陸軍と協議する為、大阪天保山沖にて開陽丸を降りた。

この時、入れ違いで徳川慶喜が開陽丸に乗船すると、副艦長・澤太郎左衛門に命じて、会津藩主・松平容保、桑名藩主・松平定敬らと共に1月8日に大坂を出航し江戸へ帰還してしまっている。
これが原因で、榎本武揚は後年、徳川慶喜と同じ写真に写ることを拒否している。

置き去りとなった榎本武揚は、大坂城内の書類、重要什器、刀剣類や大阪城の18万両を富士山丸(排水量1000t)に積み、フランスの軍事顧問団のブリュネやカズヌーブらを乗せて、1月12日に大坂を出航し、1月14日に江戸品川沖に入った。

その後、海軍副総裁に就任し幕府海軍のトップとなるも、勝海舟と西郷隆盛の交渉の結果、4月11日に江戸城が開城。新政府軍は直ちに富士山丸などを接取した。
小栗忠順などと共に主戦論を主張した榎本武揚は館山沖に艦隊を率いて停泊していたが、勝海舟の説得を受けて品川沖に戻るも、引き続き開陽丸などの譲渡を断固拒否し続けた。
8月19日深夜(8月20日)、悪天候を理由に品川沖から館山へ脱走。

若年寄・永井尚志、陸軍奉行並・松平太郎、大塚霍之丞、丸毛利恒など彰義隊の生き残り、人見勝太郎や伊庭八郎などの遊撃隊、旧幕府軍事顧問団の一員だったジュール・ブリュネとアンドレ・カズヌーヴらフランス軍人など、総勢2000余名が乗船して行動を共にした。

榎本艦隊は開陽丸(2590t)を旗艦とし、回天丸(710t、艦長・甲賀源吾)・蟠竜丸(370t、艦長・松岡磐吉)・千代田形丸(140t、艦長・森本弘策)ら戦闘艦4隻と、遊撃隊など旧幕軍兵を乗せた武装を持たない運送船である咸臨丸(当時は機関を取り除き帆船620t)・長鯨丸(996t)・神速丸(250t)・美賀保丸(帆船800t)の4隻にて合計8隻の艦隊を編成。

榎本武揚が総司令官となり、開陽丸は澤太郎左衛門が艦長として指揮を取ったが、陸ではともかく、海の上ではまだ薩摩の艦隊には負けないと言う自信があったのだろう。
下記写真は咸臨丸の模型。

途中暴風雨に遭い、美賀保丸・咸臨丸の2隻を失ったが、開陽丸は8月末に何とか仙台沖に到着し、すぐさま修理が行われた。
同じころ、会津藩は新政府軍の攻撃を受け9月22日に降伏。
奥羽越列藩同盟が崩壊し、仙台に逃れてきた桑名藩主・松平定敬、大鳥圭介や土方歳三などの旧幕府軍の残存兵2500名を艦に乗せると、徳川幕府が仙台藩に貸与していた運送船・太江丸(510t)、鳳凰丸(武装帆船600t)を加えて、10月12日仙台折浜より蝦夷地へ向かった。
途中、海賊に奪われていた元幕府船・千秋丸を拿捕し、10月19日蝦夷地の函館・鷲ノ木に約3000が上陸。
10月26日に箱館・五稜郭を占領し、11月1日に榎本は五稜郭に入った。

そして、松前城なども攻略し、12月に「蝦夷共和国」を樹立させ、選挙により総裁に就任する。

この時、世界各国に徳川幕府に次ぐ政府として蝦夷共和国を設立したことを宣言したが、結果的に認められる事はなかった。
※明治新政府もこの時点では、まだアメリカなどに認められていなかった。

函館戦争

榎本ら旧幕府軍は松前城を奪い、江差へ進軍開始したが、その援護のために向かった開陽丸が、11月15日の夜、天候が急変し流されて座礁。

回天丸と神速丸が救助に向かったが、神速丸も座礁・沈没し、数日後、開陽丸も沈没した。
主力戦艦を失った榎本艦隊の優位性は崩れ、その後の新政府軍との戦いに大きく影響を及ぼす。

幕府と新政府の動向を中立の立場を取って静観していたアメリカが、新政府を支持すると、それまで幕府がアメリカに発注していた甲鉄艦(こうてつかん)が新政府軍に引き渡さた。
この日本初の装甲艦である甲鉄艦は時代をかなり先取りした設計で、主砲に強力なアームストロング砲を搭載しており、実は榎本武揚も幕府が建造を依頼したものだとアメリカに引き渡しを求めていた経緯がある。
その最新鋭艦が新政府に渡り、海軍の優位性が移ることを恐れた榎本武揚らは軍議の上、当時の戦時国際法で許されるギリギリである、第三国の国旗を掲げて至近距離まで接近してから、自国の旗に切り替えて騙し打ちする計画「アボルダージュ作戦」を実行した。

回天丸の艦長に甲賀源吾を任じ土方歳三も乗船し、幡竜丸、高雄丸の3艦にて、明治2年3月25日、宮古沖に集結した新政府軍の艦隊、甲鉄艦、春日丸、丁卯丸、陽春丸、戊辰丸、晨風丸、飛龍丸、豊安丸に海戦を挑んだ。

しかし、またしても暴風に見舞われ幡竜丸が離脱し、高雄丸は機関故障。
回天丸1艦で突入すると奇襲は成功して接舷できたが、回天は舷側に水車が飛び出した外輪船で横づけされた状態にならない。
艦長・甲賀源吾の操船で、なんとか甲鉄艦に乗り上げるも、今度は3mもの高低差が生じて、一気に敵船に乗り込めないうちに、ガトリング砲などで攻撃を受け、乗り込む前に倒れる者が続出し、甲賀源吾も頭を撃たれて即死。

回天丸は離脱したものの、高雄丸は新政府軍の甲鉄船と春日丸によって拿捕されるに至り、函館政府は事実上制海権を失った。

新政府海軍の砲術士官として春日丸に乗船していた東郷平八郎は、この宮古湾海戦での経験を「意外こそ起死回生の秘訣」として忘れず、のちの日本海海戦での指揮にも生かしたと言われる。
下記は春日丸。

海陸軍参謀・山田顕義率いる新政府軍1500名は、明治2年4月6日に、新政府軍艦隊に乗船し青森を出航すると、4月9日早朝に乙部に上陸。
その後、艦隊は江差に砲撃を加え、新政府軍は江差を占領する。

その後、陸軍参謀・黒田清隆らの本隊も加わると、松前口(海岸沿い)、木古内口(山越え)、二股口(乙部から大野)、安野呂口(乙部から落部)への4ルートから箱館へ向けて陸路進軍開始した。
4月17日に、旧幕府軍は松前城から撤退し、4月20日に木古内も失う。
二股口の戦いでも土方歳三らは徹底を余儀なくされ、有川にて大鳥圭介・榎本武揚の部隊も敗れ、4月29日に旧幕府軍は崩壊。

敗色濃厚となったため、5月2日にブリュネらフランス軍人はフランス船で箱館を脱出。
5月8日に榎本武揚自ら出陣した大川への夜襲も失敗し、新政府軍は5月11日から函館を陸と海から総攻撃した。

この時、榎本艦隊は3隻残っていたが、回天丸は既に80発被弾しており修理不能。
千代田形丸も機関故障の為、両艦は弁天台場付近に座礁させ砲台として使用した。
蟠竜丸は総攻撃開始となった日に、新政府軍の朝陽丸の弾薬庫に砲弾を命中させ爆発轟沈の戦果を挙げたが、蟠竜丸も浅瀬に乗り上げて座礁し、艦隊は壊滅。

函館山も新政府軍に占拠されると、山頂からも砲撃を受け、弁天台場が孤立したため、土方歳三が救出に向かうも戦死。
5月12日には、甲鉄艦より五稜郭への艦砲射撃も始まり、旧幕府軍では脱走兵が相次いだ。

新政府軍参謀・黒田清隆は降伏勧告を行うも、榎本武揚は拒否したが、オランダ留学時に入手した、海事に関する国際法と外交に関する書物「海律全書」を5月14日、黒田清隆に届けさせた。
5月15日、弁天台場の永井尚志らが降伏。
元・浦賀奉行与力であった中島三郎助は、長男の中島恒太郎、次男の中島英次郎、腹心の柴田伸助(浦賀組同心)らと共に、5月16日、最後の戦闘を行い戦死。

5月16日、黒田清隆が「海律全書」の返礼として、酒樽五樽・鮪五尾を五稜郭に届けると、榎本武揚は1日の休戦を願い出て、その間に改めて軍議を行い、降伏する判断に至った。
その夜、敗戦の責任と、兵の助命嘆願の為、榎本は自刃しようとしたが、たまたま近くを通りかかった大塚霍之丞に制止されている。

翌日朝、総裁・榎本武揚と副総裁・松平太郎らは、亀田八幡宮にて陸軍参謀・黒田清隆、海軍参謀・増田虎之助らと会見し、自分の命と引き換えに兵の助命を嘆願。

しかし、有能な人材が失われると考えた黒田清隆はこれを認めず、無条件降伏に同意させている。
そして、5月18日、約1000名が投降し、五稜郭は開城・武装解除。
戊辰戦争が終結した。

降伏した旧幕府軍兵は、一旦箱館の寺院などに収容された後、弘前藩などに預けられたが、ほとんどが翌年に釈放されている。

榎本武揚、松平太郎、大鳥圭介、荒井郁之助、永井尚志、松岡磐吉、相馬主計の7名は、東京辰の口にある軍務官糾問所に投獄された。

明治政府での活躍

明治5年1月6日に特赦があり、榎本武揚らは罪を許されると、明治政府に登用され、3月8日に黒田清隆が次官を務める、北海道開拓使の四等出仕として、北海道鉱山の検査巡回の役を与えれた。

明治7年(1874年)1月には、海軍中将となり駐ロシア特命全権公使として、6月にサンクトペテルブルクに赴任。
明治8年(1875年)8月、樺太・千島交換条約を締結。
明治11年(1878年)、シベリア経由でロシアを視察しつつ帰国。
その後、外務省二等、外務大輔、議定官、海軍卿、皇居御造営御用掛、皇居御造営事務副総裁、駐清特命全権公使、条約改正取調御用掛などを歴任し、明治18年(1885年)からは伊藤博文内閣として逓信大臣、文部大臣、外務大臣、農商務大臣も黒田清隆内閣・山縣有朋内閣として歴任した。

明治23年(1890年)、子爵に叙されると、大日本帝国憲法発布式では儀典掛長を務めている。
また、北海道開拓に関与した経験から、明治24年(1891年)に徳川育英会育英黌農業科(現在の東京農業大学)を創設し自ら学長となるなど教育面でも近代日本の成立に貢献した。
その後も、外務大臣、農商務大臣など特に、日清戦争中の戦時内閣時には、歴代農相の中で最長を記録している。
しかし、足尾鉱毒事件の処理に目途が立つと「自分は知らずにいた」として明治30年3月29日に責任を取り辞職した。

明治32年(1899年)4月、黒田清隆の娘と、長男・榎本武憲が結婚。

政界からも去ると、明治38年から向島に住むと、毎日のように馬で向島百花園を訪れては花々を見て過ごしたと言う。

明治41年7月13日病に倒れ、明治41年(1908年)10月26日逝去、享年73。
墓所は東京都文京区の吉祥寺。

榎本武揚の評価

函館で独立政権を樹立した際には、やはり資金には困ったようで、売春婦から税を取ったり、箱館湾から大森浜まで柵を貼って一本木に関門を設け、女子供からも通行税を取るなどしたため、函館の住民の評判は良くありません。
しかし、福沢諭吉も、五稜郭で新政府軍に抗戦しながら、後にその新政府内で栄達を果たした榎本武揚を「二君に仕えた不義理者」と賞賛しており、私も最後まで新政府軍に抵抗した幕臣としては非常に興味をひかれる人物でございます。
皆様の評価はいかがでしょうか? もしよろしければ、ご批判・ご意見なども含めて、遠慮なくページ下部のコメント欄にお寄せ頂けますと幸いです。

日本最北の城下町と「松前城」【蝦夷・北海道】
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竹中重固【榎本艦隊と新政府軍に抵抗した竹中半兵衛の子孫】
五稜郭と箱館戦争とは~蝦夷共和国と幕末ロマンに想いを寄せて
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