韮山代官「江川英龍」の解説 韮山反射炉を計画し大砲を鋳造する【江川邸情報も】




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江川英龍とは

江川英龍(えがわ-ひでたつ)は、江川英毅の次男として1801年5月13日に韮山で生まれた。
母の名は久子、妻は北条氏征の娘。
源頼親を祖先に持つ、この江川家は1160年代に、伊豆・韮山を知行したのが始まりで、当主は代々「江川太郎左衛門」を名乗りました。
江戸時代には旗本として徳川家に仕えると、韮山代官となり世襲し、徳川家の天領の管理・民政を行いました。


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韮山代官は、通常は江戸役所にて勤務し、冬だけは韮山代官所に入ったとされます。
江戸役所の担当は、武蔵・相模・甲斐の天領で、韮山役所の担当は伊豆・駿河の天領で、合計5万石~10万石を管理していました。
また、出先機関としては三島陣屋(伊豆国田方郡)、谷村陣屋(甲斐国都留郡)、松岡陣屋(駿河国富士郡)が置かれていました。

1824年から江川英龍は代官見習いとして父の仕事を補佐を始めます。

韮山代官所

1835年、35歳で韮山代官職を継ぐと、柏木忠俊など有能な手代を各地に派遣して公平な政治を行い、物価の高騰で困窮した村には、長期低金利で貸付するなど善政を敷きます。
また、二宮尊徳を招聘して農地改良などを行ったり、種痘(天然痘の予防接種)を領民に接取されるなどの功績も見られ、領民からは「世直し江川大明神」と呼ばれて名代官と称されました。

やがて日本近海に外国船が度々出没するようになると、海防に大きな関心を持ち、積極的に洋学の知識を追求し、渡辺華山からは砲術を学びました。
また、兵隊の携行食糧にと日本で初めて「乾パン」を焼いた人物としても知られます。


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長崎へと赴くと高島秋帆の高島流砲術を学んで、更に独学で「耐火煉瓦」を開発すると、改良した大砲を韮山の反射炉で製造する準備も進めました。
1842年に「江川塾」を開くと、佐久間象山大鳥圭介橋本左内桂小五郎(木戸孝允)・大山巌榎本武揚などが門下生となり、これらの最新技術を習得していますが、門弟は4千名以上だったとされます。

1853年にペリー提督が来航すると、老中・阿部正弘から命を受けて、江戸湾に「台場」の造営を築造したり、銃砲製造も行いました。

韮山代官所の大砲

また爆裂砲弾の研究や、近代的装備による農兵組織までも計画しますが、病を押して江戸に赴くなど激務が祟り、多くの蘭方医の治療の甲斐も無く、1855年1月16日に病死しました。享年55(満53歳没)。

あとを継いだ長男・江川英敏が1863年に農兵編成を行っています。

ちなみに韮山反射炉は江川英龍が亡くなった2年後に完成しています。

また、多摩・日野宿の名主・佐藤彦五郎にも、農兵政策や自警活動を勧めたので、天然理心流を学ぶ者が増えて、のちに新撰組結成に繋がっています。
特に、新撰組副長・土方歳三は佐藤彦五郎を通じて、江川英龍の農兵思想を学んでいたと言われ、身分を問わない新撰組は、その成果とも言えます。

江川家の邸宅が韮山に現存しており、国の重要文化財・江川家住宅として一般公開されています。

江川家住宅

また、江戸の江川屋敷は、明治に福沢諭吉に払い下げられて慶應義塾となっています。

韮山の江川邸

と言う事で、伊豆・韮山にある史跡「江川邸」にも訪問させて頂きました。

江川邸は、江川家住宅などの建物が国の重要文化財に指定されており、敷地内を有料拝観できるようになっており、貴重な幕末の資料なども展示されています。

江川家住宅の資料

韮山代官所(にらやまだいかんしょ)も江川家の敷地にあったようで韮山役所跡として、国の史跡にも登録されていますので、実質的に韮山代官所跡と江川邸は同じ場所と言えるでしょう。

韮山役所

韮山代官所の管轄としては、伊豆国の幕領だけでなく、駿河国・相模国・武蔵国と、幕末には甲斐国の幕領も管轄していますので、かなり広範囲に渡ります。

江川邸の内部

そもそも、江戸時代の「代官」とは、徳川幕府の直轄領(天領)を管理して税を徴収する役目です。
その管轄各地の天領に住む領民が新田開発の許可を求めたり、何かあった際には、この韮山代官所に申請をした訳です。

韮山代官所の蔵

しかし、広範囲に渡ったため、代官の江川氏も、夏は武蔵国の対応が取れるよう、江戸本所の南割下水に韮山代官所を設け、冬になるとここ韮山の代官所に駐在したようです。
また、出張所として、伊豆国田方郡には三島陣屋、甲斐国都留郡に谷村陣屋、駿河国富士郡には松岡陣屋も置きました。

韮山代官所の蔵

そもそも、江川家は韮山で挙兵し鎌倉幕府を築いた、源頼朝にも協力し、その後、北条早雲(伊勢宗瑞)が堀越公方を駆逐して、韮山に入った際には、近くの「柏木忠俊、戦国時代には北条家の家臣となっていました。
そして、徳川家康が江戸城に入ると、伊豆も徳川領となったので、江川家が韮山の代官に任じられたと言うことになります。
そのため、現在の韮山城も、江川家の所有となっています。

韮山代官所の井戸

さて、江川邸(江川家住宅・韮山代官跡・韮山役所跡)への行き方ですが、下記の地図ポイント地点が無料駐車場とトイレがある場所となります。

最寄り駅は、韮山駅ですが、歩くと約1.6kmで20分です。
ちょっと駅が異なりますが、伊豆長岡駅からですと、レンタサイクル(貸自転車)もあり、インターネット上から事前予約も可能ですし、土日祝やGW、夏休みなどには韮山の観光地を周遊する格安バスの運行もあります。

是非、韮山城とセットで訪れたいところです。

江川邸の解説【伊豆・韮山】韮山代官所・江川氏の歴史
柏木忠俊 韮山代官所の有能な人物で、明治維新後は足柄県令を歴任
北条氏規と韮山城~激戦を物語る煙硝曲輪などの韮山城訪問記
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高田哲哉日本の歴史研究家

投稿者プロフィール

高田哲哉と申します。
20年以上、歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して史跡も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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