5分でわかる勝海舟のすごさ~幕臣・勝海舟の生涯


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勝海舟(かつかいしゅう)は徳川幕府の御家人で旗本の家の出で、幼名・通称は勝麟太郎(かつりんたろう)。昇進すると勝安房守を称した。
年表的には1823年生まれで、江戸本所亀沢町ま出身。

御家人と言っても、41石と貧乏であり叔父の屋敷や妻の実家の離れに間借りする生活で、勝海舟の話し方は気風のいい江戸弁であった。

幼少期から剣術を島田虎之助から習うと、直心影流免許皆伝の腕前となったほか、16歳で家督を継ぎ、蘭学を志して永井青崖の下で地理学、後に兵学を研究し蘭学塾も開いた。
家が貧乏であった為、日蘭辞書「ヅーフハルマ」を2部筆写して1部を売った話は有名である。
佐久間象山と交流すると、妹・勝順子を佐久間象山に嫁がせた。
このとき佐久間象山より「海舟書屋」の額を貰い受けて「海舟」を自分の号としたのだ。

ペリー提督黒船が来航すると、幕府は海防意見書を募集。勝海舟が提出した内容は適格であった為、老中首座の阿部正弘に認められた。
オランダ語も話せたため、やがて長崎海軍伝習所教頭となり、薩摩藩主・島津斉彬の知遇も得た。

長崎留学中には未亡人と、また、屋敷に奉公に来ていた若い女中なども身ごもらせ、判明しているだけで、妾の女性8人の間に子を設けている。
しかし、正妻・民子と妾が同居する家庭でありながら、不思議と波風が立つことはなかったと言う。

1860年には、日米修好通商条約の批准書交換のため、遣米使節となり、咸臨丸の実質的な艦長に就任。

ジョン万次郎福沢諭吉らとともに37日掛けてアメリカに渡航した。
帰国後は一時海軍から遠ざかり砲術師範などを務めたが、その後、将軍・徳川家茂に直訴して神戸海軍操練所を創設。
幕府の海軍でもない日本全体となる「日本海軍」の建設を目指し、欧米列強に対抗しようとした。
この頃、脱藩していた坂本竜馬らも受け入れて航海術や操船技術を教えている。

広い視野を持って世の中を見る事ができた、貴重な江戸幕府の家臣(幕臣)であり、坂本竜馬、西郷隆盛らを開眼させている。

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禁門の変が起こると、時流は倒幕へと進み始め、保守派から睨まれて軍艦奉行を罷免されて操練所も閉鎖となり、坂本竜馬を西郷隆盛に託すと寄合入りして2年間の蟄居生活を送った。
西郷隆盛は勝海舟と会談すると、大久保利通宛の書状にて賞賛している。

1866年、軍艦奉行に復帰すると、将軍・徳川慶喜より第二次長州征伐の停戦交渉を任されて、会津藩・薩摩間の調停や、長州藩と交渉するも、徳川慶喜は勅命で停戦命令を取得した為、憤慨し御役御免を願い出て江戸に帰った。

1868年、鳥羽伏見の戦いで徳川幕府は敗れて、官軍が江戸に向けて進軍すると、幕府には対応可能な適任者がいなかった為、勝海舟は復職して軍事総裁として全権を委任された。

山岡鉄舟を西郷隆盛に送り、江戸城の無血開城の用意がある事を伝え、和宮や天璋院篤姫の嘆願なども功を奏して、江戸城総攻撃の3月15日の直前2日間に、勝海舟と西郷隆盛は会談。
運命の江戸開城を迎え、江戸の住民150万人の生命と家屋・財産が戦火から救われた。

明治維新後、徳川家と共に駿府(静岡)に移ったが、新政府から相談を受けて東京に出ることも多く、勝海舟は旧幕臣の代表格として外務大丞、兵部大丞、参議兼海軍卿、元老院議官を歴任し、朝敵となった徳川慶喜を赦免させることに尽力し、徳川家を守った。

明治7年の台湾出兵に不満を覚えて職をすべて辞任すると、西南戦争で、逆臣となってしまった西郷隆盛の名誉回復にも奔走し、天皇の許可を得るなど上野の銅像建立も支援した。

明治20年には伯爵、明治21年には枢密顧問官。
明治政府の欧米寄りを批判して、清国との提携を説き日清戦争には反対であった。
足尾銅山鉱毒事件での政府対応も手厳しく批判し、田中正造を支援している。

晩年は赤坂氷川に住み、明治32年、風呂上がりにブランデーを飲むと脳溢血で倒れて死去。最期の言葉は名言の「コレデオシマイ」であった。享年77歳。

下記は5分以上必要ですが、おまけ情報です。

勝海舟ゆかりの史跡

東京には勝海舟にまつわる史跡がいくつもありますので、ご紹介いたします。

下記は赤坂本氷川坂下にある勝海舟の屋敷跡「勝海舟邸跡」です。

1859年(安政6年)から明治元年(1868年)まで、幕臣・勝海舟はここに住んでいました。
坂本龍馬も文久2年(1862年)12月に訪問していて、このとき勝海舟に心酔した坂本龍馬は、その場で弟子入りをお願いしています。

勝海舟邸跡など史跡がある正確な場所は、下記の当方オリジナル「江戸の史跡マップ」にて場所を示していますので、よければご覧頂けますと幸いです。

下記は、西郷南洲・勝海舟会見の地です。
田町(三田)にあります。

新政府軍の江戸城総攻撃は、1868年(慶応4年)3月15日に実施する予定でした。
その直前に、東征大総督府下参謀・西郷隆盛と、旧幕府徳川家陸軍総裁・勝海舟の会談が、2回行われています。
3月13日に行われた1回目の会談は予備的なもので、高輪にあった薩摩藩邸で行われました。
そして、翌3月14日に、ここ田町の薩摩藩蔵屋敷にて行われました。
その結果、江戸総攻撃は中止され、降伏案は京都にもたらされて討議することになったのです。
現在は、三菱自動車工業本社ビルになっています。

なお、勝海舟は、西郷隆盛を説得するのに「愛宕神社」がある愛宕山(標高26m)に連れて行って、江戸の街を望みながら、焼失させてはいけないと、説いたと言います。

愛宕神社には平日のお昼時に訪問させて頂きましたが、付近のサラリーマンの方々が、たくさんお参りされていました。
下記は愛宕神社ですが、周りはビルだらけで、現在では展望はありません。

いずれにせよ、勝海舟の思いは西郷隆盛に伝わり、江戸の街は戦火を逃れたわけですね。

このように現在の東京には、幕末の史跡もあちこちにありますので、散策がてらお出かけしてみてはいかがでしょうか?
新たな発見があるかも知れませんよ。

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