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勝海舟とは

勝海舟(かつかいしゅう)は幕末の旗本で、幼名・通称は勝麟太郎(かつりんたろう)と言う。
勝氏は徳川幕府の御家人から旗本へと出世した家柄となる。
勝海舟も昇進すると勝安房守を称した。
年表的には1823年生まれで、江戸本所亀沢町の出身。


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御家人と言っても、41石と貧乏であり叔父の屋敷や妻の実家の離れに間借りする生活で、勝海舟の話し方は気風のいい江戸弁であった。

幼少期から剣術を島田虎之助から習うと直心影流免許皆伝の腕前となったほか、1838年、16歳で父・勝小吉から家督を譲られると、蘭学を志して永井青崖の下で地理学、後に兵学を研究し蘭学塾も開いた。
なお、1845年9月頃、薪炭商兼質屋・砥目家の娘で、ある民子(おたみ)を正室に迎え、1846年には長女・夢が生まれている。
このお民は、2歳年上、美女だったようで、深川で芸者をしていたと言う説もある。
また、この1846年頃に、勝麟太郎は、赤坂田町の住居に引っ越している。
1850年、父・勝小吉が49歳で死去。

なお、勝家は、旗本とは言え、貧乏であった為、日蘭辞書「ヅーフハルマ」を2部筆写して1部を売った話は有名である。
佐久間象山と交流すると、1852年、妹・勝順子(17歳)が佐久間象山(41歳)に嫁いたが、お順が望んで結婚したとも。
このとき佐久間象山より「海舟書屋」の額を貰い受けて、勝海舟は「海舟」を自分の号とした。


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1853年、ペリー提督黒船が来航すると、幕府は身分の上下関係なく「海防意見書」を募集する。
この時、勝海舟が提出した内容は的確であった為、老中首座の阿部正弘に認められた。
オランダ語も話せたため、やがて長崎海軍伝習所教頭となり、薩摩藩主・島津斉彬の知遇も得た。

長崎海軍伝習所

長崎留学中には未亡人の女性と、また、屋敷に奉公に来ていた若い女中なども身ごもらせ、判明しているだけで、妾の女性8人の間に子を設けて(儲けて)いる。
しかし、正妻・民子と妾が同居する家庭でありながら、不思議と波風が立つことはなかったと言う。

1860年には、日米修好通商条約の批准書交換のため遣米使節となり、咸臨丸の実質的な艦長に就任。

サラキ岬の咸臨丸

ジョン万次郎福沢諭吉らとともに37日掛けてアメリカに渡航した。
帰国後は一時海軍から遠ざかり砲術師範などを務めたが、その後、将軍・徳川家茂に直訴して神戸海軍操練所を創設。
幕府の海軍でもない日本全体となる「日本海軍」の建設を目指し、欧米列強に対抗しようとした。
この頃、脱藩していた坂本竜馬らも受け入れて航海術や操船技術を教えている。

1863年には、坂本龍馬と船で伊豆・下田に寄港した際に、たまたま下田・宝福寺に滞在していた土佐藩山内容堂を訪ね、坂本龍馬の脱藩を許してもらっている。

勝海舟

広い視野を持って世の中を見る事ができた、貴重な江戸幕府の家臣(幕臣)であり、坂本竜馬、西郷隆盛らを開眼させた。

禁門の変が起こると、時流は倒幕へと進み始め、保守派から睨まれて軍艦奉行を罷免されて操練所も閉鎖となり、坂本竜馬を西郷隆盛に託すと寄合入りして2年間の蟄居生活を送った。
西郷隆盛は勝海舟と会談すると、大久保利通宛の書状にて賞賛している。

1866年、軍艦奉行に復帰すると、将軍・徳川慶喜より第二次長州征伐の停戦交渉を任されて、会津藩・薩摩間の調停や、長州藩と交渉するも、徳川慶喜は勅命で停戦命令を取得した為、憤慨し御役御免を願い出て江戸に帰った。

1868年、鳥羽伏見の戦いで徳川幕府は敗れて、官軍が江戸に向けて進軍すると、幕府には対応可能な適任者がいなかった為、勝海舟は復職して軍事総裁として全権を委任された。

山岡鉄舟を西郷隆盛に送り、江戸城の無血開城の用意がある事を伝え、和宮や天璋院篤姫の嘆願なども功を奏して、江戸城総攻撃の3月15日の直前2日間に、勝海舟と西郷隆盛は会談。
運命の江戸開城を迎え、江戸の住民150万人の生命と家屋・財産が戦火から救われた。

明治維新後、徳川家と共に駿府(静岡)に移ったが、新政府から相談を受けて東京に出ることも多く、勝海舟は旧幕臣の代表格として外務大丞、兵部大丞、参議兼海軍卿、元老院議官を歴任し、朝敵となった徳川慶喜を赦免させることに尽力し、徳川家を守った。

明治7年の台湾出兵に不満を覚えて職をすべて辞任すると、西南戦争で、逆臣となってしまった西郷隆盛の名誉回復にも奔走し、天皇の許可を得るなど上野の銅像建立も支援した。

明治20年には伯爵、明治21年には枢密顧問官。
明治政府の欧米寄りを批判して、清国との提携を説き日清戦争には反対であった。
足尾銅山鉱毒事件での政府対応も手厳しく批判し、田中正造を支援している。


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晩年は赤坂氷川に住み、明治32年、風呂上がりにブランデーを飲むと脳溢血で倒れて死去。最期の言葉は名言の「コレデオシマイ」であった。享年77歳。
妻・民子は、1905年(明治38年)に没。

下記は5分以上必要ですが、おまけ情報です。

勝海舟ゆかりの史跡

東京には勝海舟にまつわる史跡がいくつもありますので、ご紹介いたします。

下記は赤坂本氷川坂下にある勝海舟の屋敷跡「勝海舟邸跡」で、現在の洗足池公園の中にあります。

勝海舟邸跡

1859年(安政6年)から明治元年(1868年)まで、幕臣・勝海舟はここに住んでいました。
坂本龍馬も文久2年(1862年)12月に訪問していて、このとき勝海舟に心酔した坂本龍馬は、その場で弟子入りをお願いしています。

勝海舟邸跡など史跡がある正確な場所は、下記の当方オリジナル「江戸の史跡マップ」にて場所を示していますので、よければご覧頂けますと幸いです。

下記は、西郷南洲・勝海舟会見の地です。
田町(三田)にあります。

西郷南洲・勝海舟会見の地

新政府軍の江戸城総攻撃は、1868年(慶応4年)3月15日に実施する予定でした。
その直前に、東征大総督府下参謀・西郷隆盛と、旧幕府徳川家陸軍総裁・勝海舟の会談が、2回行われています。
3月13日に行われた1回目の会談は予備的なもので、高輪にあった薩摩藩邸で行われました。
そして、翌3月14日に、ここ田町の薩摩藩蔵屋敷にて行われました。
その結果、江戸総攻撃は中止され、降伏案は京都にもたらされて討議することになったのです。
現在は、三菱自動車工業本社ビルになっています。

なお、勝海舟は、西郷隆盛を説得するのに「愛宕神社」がある愛宕山(標高26m)に連れて行って、江戸の街を望みながら、焼失させてはいけないと、説いたと言います。

愛宕神社

愛宕神社には平日のお昼時に訪問させて頂きましたが、付近のサラリーマンの方々が、たくさんお参りされていました。
下記は愛宕神社ですが、周りはビルだらけで、現在では展望はありません。

愛宕神社

いずれにせよ、勝海舟の思いは西郷隆盛に伝わり、江戸の街は戦火を逃れたわけですね。

洗足池(せんぞく-いけ)のほとりには、勝海舟が別邸として「洗足軒」の跡があります。
旧勝海舟邸洗足軒跡、勝海舟別邸(洗足邸跡)とも呼ばれますが、一般公開されています。

勝海舟の洗足池畔の別邸(洗足軒)

下記は勝海舟夫妻の墓への参道入口となります。

勝海舟夫妻の墓

勝海舟は1899年(明治32年)に亡くなりましたが、遺言によってこの屋敷跡の富士山が良く見えるところに葬られましたが、自身の墓は生前に作っていたと言います。
妻・たみ(民子)の墓は、青山墓地にありましたが、のちに移設して合祀したものとなります。
右側が勝つ海舟の墓で「海舟」の字は最後の将軍・徳川慶喜の揮毫とも伝わります。

勝海舟夫妻の墓

下記のように公園として整備されています。

勝海舟の墓

そして、勝海舟は西郷隆盛の戦死を悲しみ、南洲西郷先生(西郷隆盛)の留魂祠も建立していましたので、同じ敷地内にあります。



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このように現在の東京には、幕末の史跡もあちこちにありますので、散策がてらお出かけしてみてはいかがでしょうか?
新たな発見があるかも知れませんよ。

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高田哲哉日本の歴史研究家

投稿者プロフィール

高田哲哉と申します。
20年以上、歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して史跡も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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コメント

    • BIG-BIRD
    • 2020年 2月 04日

    本文の5行目
    御家人と言ってもで始まる文ですが、どのように読んでも「勝海舟は御家人である」としか読めません。
    再度、主張します。勝海舟は、石高は低いのですが「旗本」です。
    勝海舟を御家人と書いているものは皆無です。
    検討してみてください。

    • BIG-BIRD
    • 2020年 2月 03日

    勝海舟で2回目の投稿です。
    石高は41石に反応しました。どこかで聞いたような数字なのです。41石と入力してみると、最初にでてきたのは、西郷隆盛である。西郷の石高が41石と書かれてある。100石とか200石というキリの良い良い数字ならわかるけど、41という中途半端な数字である。更に調べると、西郷隆盛は、沖永良部島で、フィラリアを患い陰嚢が腫れ上がり、馬に乗れなくなったという。一方、勝海舟は、9歳の時に野犬に陰嚢を噛まれてたという。なんという偶然なのだろう。よりによって同じ場所とは。更に奥さん(妾・島妻を含む)が複数いたことも共通している。
    他にも共通することはないかと調べた。誕生日(勝が年上)・位階(勝は正二位に対して、西郷は正三位)・動物(西郷は犬好きに対して、勝は犬が苦手)・剣術(勝は直心影流免許皆伝にたいして、西郷は、腕の傷が原因で挫折)となかなか見つからなかった。
    調べていくと、西郷の父親である西郷吉兵衛の幼名は、西郷小吉とある。西郷隆盛(本名は隆永)の隆盛は、父親と同じであることは知っていたが、幼名も同じであるとは知らなかった。そして、見つけました、勝の父親は、勝小吉なのだ。何か不思議を通り越している感がある。
    その他
    ①41石は、江戸後期で51万円、幕末だと25万になると書いてある。
    ②旗本には、無高という旗本もいるそうだ。

    • たかだ
    • 2020年 2月 02日

    色々と誤字などのご指摘、いつもありがとうございます。
    時間が取れ次第、適時、修正させて頂きます。

    なお、旗本は、江戸時代の徳川将軍家直属の家臣で、1万石未満の者を差します。
    また、江戸幕府では御目見以下の幕臣を「御家人」と称します。
    よって、当初、身分が低くかった家柄から旗本になったと言う意味での表現になっているものと推測致します。
    お陰様で、私も勉強になります。(^-^)

    • BIG-BIRD
    • 2020年 2月 02日

    1行目から反応した
    勝海舟は、徳川幕府の御家人で旗本の家の出で?
    ①えっ?勝海舟は御家人?
    ②旗本の家の出?一体全体どういうことだろう。
    勝海舟は、れっきとした旗本です。小普請組という無役の旗本です。小身の身とはいえ、旗本です。
    勝家は、もともとは御家人でしたが、祖父の頃に旗本になっています。

    御家人と言っても、41石と貧乏であり→旗本といってもです。

    勝海舟が提出した内容は適格であった為→的確であった為です。

    妾の女性8人の間に子を設けている→儲けているという表現が良いと思われる。儲けるが、人偏であることに意味がある。

    咸臨丸の実質的な艦長→実質的なにちょっと抵抗があります。船酔いが凄くて役に立たず、実質的な艦長は、ブルック大尉ではなかったのか。

    • キンタ
    • 2017年 6月 02日

    不謹慎だけど、「コレデオシマイ」はシビれますね。

    • 匿名
    • 2016年 8月 27日

    彼なくせば、日本は欧米列強の餌食となったであろう。

    • 暗黒の明治
    • 2016年 6月 16日

    勝が「日本の海軍」を造ったなんて大嘘
    小栗上野介が横須賀に造船所を造ろうと建議したとき勝は反対している
    「もったいない。船なんて外国から買えばよい」という勝の反対に、
    「次の政府が役立てても良い。日本の海軍が強くなればいい」と断行したのは小栗

    東郷平八郎が「日本海海戦の勝利は、横須賀造船所を造ってくれた小栗のおかげ」と言っているのが証拠

    小栗たち幕府の代表はアメリカ船に乗ってワシントンに行き交渉したが
    護衛船の海臨丸は同行もできず西海岸に寄航しただけで先に日本に帰っており、勝はアメリカの見聞もろくにない

    小栗の実績の多くが、のちに勝のものにされてしまった
    幕府崩壊後、免職されて群馬に隠居していた小栗を謀殺したのは、その才能を恐れ嫉妬した勝だと思う
    大言壮語はいずればれるもので、勝を嫌う者も多く晩年は孤独な死を迎えている

    • 匿名
    • 2016年 6月 11日

    でもご子息の教育はうまくいかなかったそうですねえ


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