田中正造と足尾銅山鉱毒事件


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田中正造は、1841年、安蘇郡小中村(現栃木県佐野市小中町)の名主・田中富蔵の家に生まれた。母の名はサキ。幼名は兼三郎(かねさぶろう)。
儒家・赤尾小四郎の塾で学び、17歳で父の跡を継いで小中村の名主となると、23歳の時、石塚村(現佐野市石塚町)の大沢カツと結婚。
このころ、領主であった旗本・六角家の改革運動に先頭に立って活動したが、1868年に捕らえられて11ヶ月の投獄生活を送った。
この時の牢は縦横高さともに1mほどしかない狭いもので、足を伸ばして立つことも寝ることもできない過酷な獄中生活だっと言う。

出所後、1870年(明治3年)に、江刺県(現秋田県と岩手県の一部)で官吏となったが、上司の木村新八郎殺害の容疑者として逮捕され、1871年に再び投獄された。
田中正造の性格や言動から当時の上役たちに反感を持たれたと考えられ、元々、冤罪だったとようで、1874年(明治7年)に釈放されると小中村に戻り、1876年(明治9年)まで隣の石塚村(現・佐野市石塚町)の造り酒屋・蛭子屋で番頭を務めた。

明治11年(1878年)に栃木県第4大区3小区区会議員に選出され、政治家としての第一歩を踏み出すと、明治13年(1880年)には栃木県会議員に当選し自由民権運動家として、県民負担軽減、小学校教育充実などに取り組み、当時の栃木県令・三島通庸と対立した。明治19年には栃木県会議長に就任。

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その後、明治23年(1890年)、栃木3区から立候補し、第1回・衆議院議員選挙に当選すると、立憲改進党、進歩党の重鎮として議場で活躍し、以後6回連続当選している。
代議士時代には、明治24年(1891年)の第2回帝国議会で鉱毒被害に関する質問書の提出を始めとし、足尾銅山の鉱毒問題に取り組んだ。
1900年(明治33年)2月13日、渡瀬村の農民らが東京へ陳情に出かけようとしたところ、途中の群馬県邑楽郡佐貫村大字川俣村(現・明和町川俣)で警官隊と衝突。流血の惨事となり、農民多数が逮捕された(川俣事件)。
1901年(明治34年)10月23日、田中正造は議員を辞職。そして、12月10日、鉱毒被害の惨状を訴えるため、国会から帰る途中の明治天皇に直訴しようと試みるが、警備の警官に取り押さえられて失敗。
号外も出るなど東京市中は大騒ぎとなったが、政府は単に狂人が馬車の前によろめいただけだとして不問にすることとし、死を決意していた田中正造は即日釈放された。
しかし、1902年(明治35年)、川俣事件公判の際に「あくび」をした罪を問われ、重禁固40日の判決を受け服役。このとき聖書を読み、影響を受けている。

その後も、渡良瀬川の遊水池計画の反対運動に尽力し、遊水池の候補地とされた谷中村(現栃木県栃木市藤岡町)に移住して、住民と共に村を守るために闘った。
しかし、政府による土地収用法の適用や谷中村残留民家の強制破壊により谷中村は消滅するも、田中正造は、引き続き残留民と共に谷中村復興を図り、また政府の治水政策の誤りを指摘するために、関東地方の河川調査を続けたが病に倒れ、大正2年(1913年)9月4日、貧窮の中、渡良瀬川河畔の庭田清四郎宅で73歳の生涯を閉じた。下野新聞によれば、死因は胃ガンなど。
財産はすべて鉱毒反対運動などに使い果たし、死去したときは無一文だったという。

春日岡山惣宗寺(そうしゅうじ、佐野市金井上町)で行われた葬儀には5万人の人が参列したと言われ、田中正造の遺骨は彼を慕う人々の要望で、正造生誕地墓所(佐野市小中町)、春日岡山惣宗寺、雲龍寺(群馬県館林市下早川田)、田中霊祠(栃木県栃木市藤岡町)、北川辺霊場(埼玉県加須市麦倉)久野村(現・足利市) 寿徳寺 の6箇所に分骨された。

 

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