明治天皇とは 明治天皇の功績とその生涯


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 明治天皇(めいじてんのう)は、孝明天皇の第二皇子として嘉永5年(1852年)9月22日に、京都石薬師の中山邸にて生誕した。
 生母は権大納言・中山忠能の娘・中山慶子。

 1歳のときである1853年にはペリー提督黒船来航となり、いやおうでも幕末の動乱期に巻き込まれていく事となったが、第1皇子・妙香華院は、1850年に誕生した翌日に早世していたことから、次の天皇として知識深い教育を受け育った。

 慶応2年12月25日(1867年1月30日)、孝明天皇が崩御すると、満14歳で皇位にき、第122代天皇となった。

 薩摩藩の西郷隆盛大久保利通らは、公卿・岩倉具視を通じて討幕の密勅の降下を明治天皇に求めた。

 その10ヵ月後、江戸幕府の徳川慶喜は大政奉還。その後、岩倉具視からの新政府人事と徳川慶喜の処分を求められると「王政復古の大号令」を発布し、新政府が樹立された。

 鳥羽伏見の戦いを経て、勝海舟江戸城開城の交渉を行っていた、明治元年3月14日に「五箇条の誓文を公布」して、新政府の基本方針を示した。

 そして、明治と改元すると一世一元と定めて、京都の人々に配慮して、一度江戸へ行幸した翌年、明治2年(1869年)に京都から東京へ遷都した。

 また、この間、明治元年12月28日に、皇后として一条美子(昭憲皇太后)を迎えた。

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 欧米の制度や文化を見習い、近代国家を建設するためには、各地を支配する藩(大名)の解体が不可避であり、明治2年6月17日には版籍奉還の上表を勅許。
 最初の頃こそ、新政府には公家や旧大名が多かったが、東京に遷都したことで、次第に三条実美、岩倉具視、木戸孝允、大久保利通らの発言権が大きくなっていき、明治4年(1871年)7月14日には廃藩置県を断行し、中央集権体制を確立した。

 また、散髪脱刀令が出された後、明治天皇が西洋風に断髪したことで、日本国民も断髪する者が増えたという。

 明治6年(1873年)に征韓論で政府部内が紛糾すると、勅旨をもって西郷隆盛の朝鮮派遣を中止させた。
 また、明治7年(1874年)からの自由民権運動では、立憲政体の詔を発して政体改革を進めるなど、明治天皇は内部での政治的対立を調停する役割も果たしている。

 そして、日本の政治、経済、社会、教育、軍事を改革し、明治22年には大日本帝国憲法や教育勅語などを発布し、立憲国家・近代国家確立に献身した。

 日本が初めて直面した近代戦争となった日清戦争・日露戦争では、明治天皇は大本営で直接戦争指導に当るなどし、名実共に日本は列強の一員となった。

 和歌は約10万首もの詠歌をのこしたほか、乗馬も好み、文化的な素養にも富んでいた。
 日常生活は質素を旨とし、どんなに寒い日でも暖房は火鉢1つだけで、自己に厳しく、天皇としての威厳保持に努めたと言う。

 明治45年(1912年)7月、持病の糖尿病が悪化し、気分が悪い中、7月11日に東京大学の卒業式に出席した。
 その後、侍医だけでは対応できなくなり、7月20日に青山胤通と三浦謹之助が診察して尿毒症と診断。
 7月28日かには痙攣が始まり、カンフル・食塩水の注射などが行われたが、7月29日午後22時43分に宝算61歳(満59歳)で崩御した。

 大喪の日には、陸軍大将・乃木希典夫妻を始め、多くの者が殉死した。

 墓所は伏見桃山陵(京都市伏見区)。

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