乃木希典とは  日露戦争で旅順攻略に成功した陸軍大将の生涯


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乃木希典(のぎまれすけ、乃木源三)は長州藩の支藩である長府藩士・乃木希次(80石)と乃木壽子の3男として、1849年11月11日に江戸の長府藩上屋敷にて生まれた。
なお、長兄・次兄は夭折していたため世嗣であった。

幼い頃、蚊帳の釣り手の輪が左目に当たったようで失明。

1858年11月に父・乃木希次が藩主の跡目相続問題に巻き込まれて、閉門・減俸となると、乃木希典ら家族は江戸を出て長府に戻った。

1859年、11歳になると結城香崖から漢学・詩文を学び、流鏑馬、弓術、西洋流砲術、槍術、剣術なども学び始めたと言う。

そして、長府の鍛錬道場「集童場」に入って心身共に鍛え、1862年12月に元服した。

しかし、父と対立し、1864年3月、16歳のときに出奔。
親戚であった萩の玉木文之進を頼って弟子入りしようとしたが、出奔してきたことを咎められ、農民になれと諭されたと言う。
なんとか玉木文之進の屋敷に住むことは許されると、農作業を手伝う傍ら、松下村塾にて学問も受けたとされる。

なお、吉田松陰より19歳年下となるため、萩に出た際には、既に吉田松陰は処刑されたあとの事であった。

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1864年9月からは、長州藩の藩校・明倫館にて学び、一刀流剣術にも汗を流し文武両道を目指した。

1864年、乃木希典は集童場時代の友人らと盟約状を交わして、長府藩「報国隊」を創設。
1865年、第二次長州征討では山砲を率いて参戦し、山縣有朋のもと小倉城一番乗りを果たしている。

その後、藩命を受けて、伏見御親兵兵営にてフランス式訓練法を学ぶと、以降は軍人の道を進み、明治4年には黒田清隆らの推挙もあり、若干22歳にして陸軍少佐となる。

西南戦争では歩兵第14連隊長心得を務めて、田原坂の激戦で連隊旗を、西郷隆盛らの薩軍に奪われてしまう失態を犯してしまった。
乃木希典は苦しみ、自殺を図ろうとしたところを、児玉源太郎に見つかり、軍刀を奪い取って諫めたという話もある。
その後、重傷で野戦病院に入院していたにも関わらず、脱走して戦場へ向かおうとしたため「脱走将校」の異名を取っている。
この時のケガがもとで、左足が少し不自由になったが、西南戦争に勝利すると中佐に昇進した。

苦しむ乃木希典を見た母・乃木寿子は、妻を迎える事を勧めて明治11年8月27日、薩摩藩士・湯地定之の4娘・お七(静子)と結婚させたが、酒でまぎらす日々は続き、祝言にも遅れたほどであったと言う。

明治13年に大佐、明治18年には少将に昇進し、歩兵第11旅団長に就任。
この間、長男・乃木勝典、と次男・乃木保典がそれぞれ誕生している。

明治20年1月からは、川上操六とともにドイツ帝国へ留学し、戦術だけでなくドイツ陸軍のすべてを学んだことが契機となり、明治21年の帰国後、軍紀確立など軍人教育を説いた意見書を大山巌に提出し、軍服着用の重要性を率先して示すため、自らは常に軍服で身を律した。
以後は、料亭や芸者が出る宴会には一切出席せず、生活も質素にし、模範を示したと言う。

その後、近衛歩兵第2旅団長を経て、歩兵第5旅団長(名古屋)となるも、上司の第3師団長・桂太郎とそりが合わず、明治25年に病気を理由に2度目の休職をし、那須野にて農業を従事した。

明治25年、歩兵第1旅団長として復帰すると、明治27年8月1日、日本は清に宣戦布告して日清戦争となり、大山巌が率いる第2軍として、歩兵第1旅団は僅か1日で旅順要塞を陥落させた。
また、第1軍・桂太郎らの第3師団の窮地を救うなどの功績も挙げ、中将に昇進すると第2師団(仙台)の師団長となり、また男爵にも列した。

明治29年には台湾総督に就任するも明治30年に辞職し、あとを児玉源太郎に託した。

明治31年には第11師団長(香川)となるも、明治34年からは再び休職し、那須野で農耕したが、もっぱら兵書を読み、軍事演習があると聞くと可能な限り見学し、研究を怠らなかったと言う。

明治37年、日露戦争では第3軍司令官となり大将に昇進し、再び旅順要塞の攻略に当たった。
しかし、ロシアの防備はかなり増強されており、3回に渡る総攻撃を持っても落ちず、長男・乃木勝典も戦死するなど多数の兵力を消耗し弾薬も不足。
批判は国民の間でも発生し、東京の乃木邸には石も投げこまれる状況となる中、次男・乃木保典も戦死するも、203高地を占拠すると、旅順艦隊に艦砲射撃を加え、なんとか旅順を攻略することに成功した。

ロシアが機関銃を効果的に活用した防御陣地を突破するため、この日露戦争を観戦した欧米各国は「戦車」を発明して行く事になる。

日本では大国ロシアに勝利したと大変な騒ぎとなり、長男と次男を相次いで亡くした乃木閣下には日本国民も同情したことから、凱旋した乃木大将は大歓迎を受けたが、多数の将兵を戦死させた自責から歓迎会などはすべて断ったと言う。
また、降伏したロシア将兵に対する寛大な処置などは世界で賞賛され、ドイツ帝国、フランス、チリ、ルーマニア、イギリスなどからは乃木希典に勲章が授与されている。

乃木希典による明治天皇への報告では、涙声となり、自刃して明治天皇の将兵に多数の死傷者を生じた罪を償いたいと奏上するも、天皇は「今は死ぬときではない。どうしても死ぬと言うのであれば、朕が世を去った後にせよ」と述べたとされている。

明治40年(1907年)1月31日、軍事参議官の乃木希典は学習院院長を兼任することになる。
これは、明治天皇の孫(昭和天皇ら)が学習院に入学することから、その養育を乃木に託すべく、天皇自ら人事を行ったとされる。
これに対して乃木は、自宅に月1~2回帰宅する以外は、学習院の寄宿舎に入って生徒と寝食を共にした。

明治45年(1912年)7月29日、持病の糖尿病が悪化した明治天皇が崩御。

大正元年(1912年)9月13日、明治天皇大葬が行われた日の午後20時頃、静子夫人と共に東京赤坂の自宅にて、明治天皇を追って殉死するため自刃した。享年62。

静子夫人も、乃木希典が割腹するのと同時に、懐剣にて心臓を突き刺して自刃した。享年54。

墓所は港区青山霊園。

学習院で乃木希典を慕っていた裕仁親王は、涙を浮かべ「ああ、残念なことである」と述べたと言い、多くの日本国民は悲しみ、9月18日に行われた、乃木夫妻の葬儀には十数万の民衆が参列。
外国人も多数参列したことから「世界葬」とも表現されたと言う。

ごめなさい。涙が止まりません。

日露戦争は激戦で知られ約8万の将兵が戦死しました。ロシア側も2万5千が命を落としています。
坂の上の雲などで、東郷平八郎大将や秋山真之少佐、秋山好古少佐、乃木大将の事は知っており、改めてまとめてみたのですが、旅順攻略で苦戦し、かけがいのない2人のご子息を亡くし、明治天皇のいいつけを守った乃木大将夫妻の、その後の心中を思いますと、涙があふれてしまいました。

以上、最後までご高覧賜り、ありがとうございました。

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