吉田松陰とは 詳細版 吉田寅次郎の生涯 幕末の偉大な奇人


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 NHKの大河ドラマ「花燃ゆ」にて注目を浴びている「吉田松陰」(吉田寅次郎)に関して、出来る限り詳しく年表形式にてご紹介させて頂く。

 吉田松陰は、1830年(文政13年)8月4日、家禄26石と言う知行を持たない無給通士(下級上等)の長州藩士・杉百合之助の次男として生まれた。
 母の名は瀧。幼名は杉寅之助(杉虎之助)または杉大次郎。誕生地は長門国萩松本村(現・山口県萩市椿東椎原)。
 「寅の年」生まれであったことから「寅次郎」と名づけられたのだ。

 吉田松陰の生家は城下町を一望できる通称・団子岩と呼ばれるところにある古い一軒屋であり、父・杉百合之助は下級武士だったので、農業中心の生活をした貧しい生活であった。
 父・杉百合之助は「まじめ」「潔癖」「寡黙」な人物であったと伝えられており、子供達と一緒に田畑の作業をしながら、親子で四書五経の素読をしたと言う。
 畑を耕しながら「文政十年の詔」「神国由来」「頼山陽の詩」などを、父が音読するのを子供たちが復唱し、夜も家でも仕事しながら兄弟は本を読んだと言う。
 妹・千代の証言によると、寅次郎は幼い頃は机に向かって漢籍を読んでいるか、筆を執っているかで、外で子供らで遊ぶような事は稀であったと話している。
 このように寺子屋などには通わず、父・杉百合之助と、叔父・玉木文之進と言う親近者から、毎日、学んでいた。

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吉田松陰、早くも才能を発揮

 1834年、5歳のとき父の弟・吉田大助(吉田大輔)の仮養子となる。この吉田家は藩の毛利家・山鹿流兵学師範であり、家禄は約57石であった。
 赤穂浪士で有名な赤穂藩・浅野家の家老「大石内蔵助」による陣太鼓の打ち方が、山鹿流だったということは有名。
 1835年、養父・吉田大助が29歳と若くして亡くなると、僅か6歳の吉田大次郎が家督を継いだ。
 しかし、まだ幼かったので、家督は継いだが、実家の杉家に戻って養育を受けた。
 
 生前には養父・吉田大輔からも山鹿流の兵法を教わったが、死後は叔父・玉木文之進から山鹿流兵法の英才教育を受ける事となる。
 しかし、かなりのスパルタ教育だったようで、後年に吉田松陰は「(当時)死ななかったのが不思議なくらいだ」と話している。が、この時の「己を捨て公の為に生きろ」と言う教えは、生涯、吉田松陰が目指すところとなった。

 吉田家は代々、藩主や藩士に明倫館で兵法を講義をするのが職務であり、また早くも才能が認めらた吉田松陰は、1838年、僅か9歳で藩校明倫館の兵学師範(見習い)に就任すると山鹿流兵学の講義を開始している。
 師範と言う事は教える側の先生の事で、まもなく後見人がついたが、こうして山鹿流兵学の教授を務めた。

 1840年、11歳の時には藩主・毛利敬親への御前で「武教全書」戦法を講義。見事な講義を行い驚かられて師を尋ねられると叔父の玉木文之進だと答えている。
 この見事な披露により「松本村に天才あり」と、早くも吉田大次郎(吉田松陰)の名は萩城下で知れ渡る事となった。
 1841年、馬術を波多野源左衛門から学ぶ。
 1842年、叔父の玉木文之進が自宅にて私塾「松下村塾」を主催。寅次郎も通って勉学に励んだ。(1843年には玉木文之進が官職についた為、松下村塾は閉鎖)
 1843年、長州藩は関ヶ原の戦い以降、343年ぶりに軍事演習を実施。山鹿流兵学による西洋艦隊の壊滅作戦演習(砲術)を13歳の吉田松陰が指揮した。
 1844年、藩主御前にて「孫子虚実篇」を講義。藩主から七書直解を賜っている。
 1845年、山田亦介(村田清風の甥)から長沼流兵学を学んだ。
 また、この時、山田宇衛門から世界地図「坤輿図識(こんよずしき)」を贈られ、この頃から、外国の脅威に対してどのように対抗するか、考えるようになる。
 1846年の春、林真人宅にて火事に遭い書籍衣服を焼失。
 3月3日、山田亦介より長沼流兵学の免許を受け、佐藤寛作から「兵要録」を、飯田猪之助に「西洋陣法」などを学ぶと、食べるのを忘れるほど海防を勉学したと言う。
 1847年2月2日、藩主が吉田松陰と門人の家学講義と作図を見学。
 9月「平内府論」を作成。
 10月27日、林真人より、山鹿流兵学の免許(大星目録の免許)を受けた。
 1848年1月、藩の役目である組並の諸役に就き、家学の後見が解かれ、僅か19歳にして藩校・明倫館の独立師範(兵学教授)となった。
 6月4日、再び藩主が明倫館の様子を見学に訪れ、10月4日、長州藩学制改革の意見書を藩主に提出。
 1849年2月、明倫館が新築され拡大された。藩主より賞服金を賜り「兵学寮定書」と「門弟等級次第」を定める。
 3月17日「水陸戦略」を外夷御手当方に提出すると、御手当御用内掛(海防掛)に任命され、6月藩内の藩内の須佐海岸、赤間関海岸など沿岸防備を巡視・調査。
 藩から防備に関する意見を求められ、10月に「西洋の兵学を導入すべき」と返答している。
 7月には、桂小五郎益田親施らが吉田松陰の兵学門下生に加わった。
 10月、門人を率いて、羽賀台で演習。

九州遊学にて見聞を広める

 当時、ヨーロッパやアメリカでは資本主義が発達し、産業の為に原材料を植民地に求めており、インドやシナなどアジア各国は次々と西洋諸国による侵略を受け、日本も侵略を受ける可能性は捨てきれなかった。
 この頃になると外国船が日本近海にも出現しており、様々な情勢が長州藩にも伝えられ、今までの学問や知識では守る事とはできないと、兵学の師範である吉田松陰は悟った。
 「己 を知り 彼を知り 時を知る」は兵学の「6字の名号」と呼ばれているが「敵のことを知る」(情報収集)は今でも兵学の基本であり、見聞を広めて、多くの知識を得ようと強く願うようになる。

 1850年5月27日には、藩主・毛利敬親に講義を行い、8月20日にも「武教全書守城篇」と「篭城の大将心定め」を講義。
 そして、10ヶ月間の九州遊学許可を得て、8月23日に萩を出発。
 8月26日には下関に入るも発熱し、29日になって九州に渡り、9月5日に長崎の長州藩邸に着いた。
 長崎ではオランダの蒸気船をはじめて自分の目で見ると実際に乗船もし、スープとパンを食べたと伝えられている。
 9月11日に発つと、続いて9月14日に平戸を訪れ葉山佐内という山鹿流兵学の宗家に学び、9月18日には山鹿万介と会談した。
 平戸には11月6日まで滞在して海外の情報を収集し、中国のアヘン戦争の漢文書物「阿芙蓉彙聞」などを読破。西洋諸国による東洋侵略の残忍さに大きな衝撃を受けた。
 また雲仙の小池地獄温泉にも立ち寄ったようである。
 12月に熊本を訪れると、池辺啓太や10歳年上の宮部鼎蔵と会談し、日本国の防衛などで意気投合し、以後は生涯の親友となっている。
 吉田松陰は、西洋砲術を勉学したいと考え、オランダ語の勉強が必要となったが、この頃、長崎には適当なオランダ語の先生がいなく、12月29日に萩に帰国したあと、江戸への遊学を申し出ることになった。
 1851年1月、林真人より三重傳の免許を受けると1月15日、藩主・毛利敬親に山鹿流兵学皆伝を授け、2月12日には孫子を講義し、2月20日には藩に「文武稽古万世不朽」の長文の意見書を上書した。

江戸に出て、更に東北視察へと脱藩

 江戸にて更に学びたいと考えていた吉田松陰であったが、その機会はすぐに訪れた。
 この辺り長州藩は才能を生かすため、積極的に人材育成すると言う素晴らしい方針であったことも、吉田松陰を更に幕末の英雄にと描きたてた要因と言えよう。

 3月5日、中谷正亮と江戸に向かい、平戸藩主の参勤交代に従って江戸へ出た。途中、3月18日に、湊川で楠木正成の墓にお参りしている。
 4月9日、江戸に着いた吉田松陰は長州桜田藩邸に入り、手紙で家族に「なかなかいい先生がいない」と伝えていたが、この22歳の時に運命的な出会いをした。
 それは、信州松代藩士「佐久間象山」で、当時の学問の中心であった四書五経にも詳しく、また「兵学」「オランダ語」「西洋砲術」など多岐にわたり学問を究めており、実際、写真機を自分で作ったりするなど天才であった。
 そんな佐久間象山に、吉田松陰は弟子入りした他、安積艮斎、古賀茶渓らから砲術と蘭学を学んだ。また、鎌倉の伯父の僧・竹院を瑞泉寺に訪ねている。
 宮部鼎蔵も江戸にいたため、6月10日に2人は一緒に鎌倉や千葉の沿岸視察にも出掛けたが6月22日に江戸に戻り、7月16日、外国船が頻繁に出没していた東北地方へ遊学する際、長州藩に東北旅行の願書を提出すると7月23日に受け入れられた。
 しかし、何ヶ月経過しても通行手形の発行が遅れ、赤穂浪士の討ち入りの日で知られる12月14日に「大願成就の為に、約束の日を逃すのは武士として恥」として宮部鼎蔵らとの約束を守る為、通行手形無しで他藩に赴く形となった。これは、すなわち「脱藩」を意味していたので、同じく江戸にいた長州藩士・来原良蔵が密かに手助けしたとして罪を問われた。
 12月19日に水戸に入ると永井政介宅に泊り、会沢正志斎を訪ねている。
 そして、24日に宮部鼎蔵が合流。

 約1ヶ月間、日本史を重視する水戸藩に滞在し、1月4日には銚子へ向かい、途中、鹿島神社を参拝。
 水戸での尊王攘夷思想にも大いに触れた後、1852年1月20日に水戸を発った。
 そして、白河、会津若松に出向くと会津藩の藩校・日新館を訪れ、雪の中、越後に入ると佐渡島にも渡り、ロシア船往来の話や海岸防備を見学した。
 その後、新潟から秋田へ赴くと、1852年閏2月29日には、津軽に入り大鰐温泉に寄った後、弘前にて伊東広之進を訪ね、津軽海岸防備やと、稽古館のことなどを尋ねた。
 3月2日には荒谷貞次郎を訪ね、ふたたび伊東広之進を訪ねると、鈴木善三郎と会談している。
 そして青森、盛岡、仙台、米沢、日光、足利、館林などを遊歴し、海岸防備状況を確認するだけでなく、東北の地理についても身に着けた。
 このように約5カ月間、東北を周ると、4月5日に江戸に戻り鳥山新三郎宅に逗留した。

謹慎処分も許されると黒船と出会う

 東北から江戸に戻った吉田松陰は1852年4月10日、長州藩の江戸屋敷に出頭して待罪書を提出。
 当然ながら、脱藩の罪は当然受ける事となり「謹慎処分」が下され、長州藩より帰国命令が出されると4月18日に江戸を発ち、5月11日に萩に帰って、杉家にて謹慎し正式な処分を待った。

 この間、盛んに国史、國典を読み、11月頃から「松陰」の号を用いるようになった。
 
 その後、12月9日に処分が下され、脱藩の罪により家禄没収と藩士の身分をはく奪された。名を通称の松次郎に改めた。
 すなわち、藩士では無くなったが、自由の身である浪人となり、実父である杉百合之助が育み役となり、援助を受けたと言う。

 この時、どうも、吉田寅次郎の才能を惜しんだ藩主・毛利敬親は、父・杉百合之助に対して、10年間の諸国遊学を願い出るように促したようだ。

 その言葉を受けて藩に諸国遊学願を提出すると藩主・毛利敬親が認めて、1853年1月16日に10年間の国内遊学許可が下り、1月26日に江戸へ向けて出発した。この時、名を吉田寅次郎に改名。
 瀬戸内海を船で進み2月10日に大坂に入ると、2月23日、京にて森田節斎の私塾に入った。
 その後、5月10日には伊勢の斎藤拙堂を訪問。
 中山道を進んで信州経由で江戸に出ると、浪人身分で藩邸には住めないため、鳥山新三郎の家に寄宿した。
 5月24日に江戸練兵館・斉藤新太郎を訪問するなど、多くの知名の士と交流。
 そして、6月3日に佐久間象山の私塾に入ったそのとき、黒船の来航を知って6月4日に瀬能吉次郎に手紙を書いた。
 日米和親条約締結を求めて、アメリカ合衆国の東インド艦隊であるペリー艦隊が来日したのだ。(黒船来航)
 さっそく、6月5日に、黒船を見に浦賀まで行っている。

 煙を吐いて動力で進むアメリカの最新鋭軍艦を見て大きな衝撃を受けると、西洋列強からの国防意識を強く抱き、西洋先進国を知るために外国留学の意志を固めた他、浪人であるにも関わらず、匿名で長州藩主に「急務発議」と「将及私語」を提出。
 8月8日には、幕府軍の慌てふためく姿を、杉梅太郎宛の手紙に書いている。
 佐久間象山の塾で西洋について学びながら、9月13日には、鎌倉の叔父を訪ねた。

 その後、長崎にロシアのプチャーチン号が寄港していると言う情報を聞きつけると、9月18日、長州藩足軽・金子重之輔(金子重輔)と一緒に江戸を発ち、長崎へ向かった。
 10月1日に京都に着き、3日かには大阪から船に乗り豊後を経て長崎へ急いだが、ようやく到着した10月27日には、既にプチャーチン号は去った後だった為、長崎を出ると11月13日に萩に立ち寄り、11月24日に宮部鼎蔵と共に萩を出て、京や伊勢を周りながら12月27日に江戸へ戻った。

黒船へ乗り込みアメリカ密航を請う

 1854年1月7日、相模国で海岸視察して長州藩主に意見書「海戦策」を提出したのち、ペリー艦隊7隻が日本に再航した。
 この時、江戸藩邸で働く金子重之輔と2人で密航を企て、3月5日に友人らとの別離の宴を開き、当時、江戸詰だった兄・杉梅太郎を欺いて、横浜に向かった。
 2人は変名を使い、途中、3月6日に保土ヶ谷でペリー提督に渡す手紙を書くと、3月18日に艦隊の停泊先である伊豆下田に到着し密航の機会を伺った。

 下田では村医者・村山行馬郎の家で、隠れ部屋となっていた2階にて寄宿し、その滞在中、皮膚病を患っていた吉田松陰は、家の前にある蓮台寺温泉共同風呂にも入浴している。
 ※村山行馬郎邸は、当時のまま現存しており、有料拝観可能。蓮台寺温泉共同風呂もあるがこちらは町民専用。
 ジョン万次郎の前例にならい「漂流」という形で外国船に乗り込むことを考え、3月25日に柿崎弁天島の祠に入り、3月27日には上陸中のアメリカ水夫に「投夷書」と言う手紙を託した。

 我々2名は世界を見たいと望む者です。どうぞ、貴船に我々を乗せて下さい。
 外国への渡航は、然しながら、日本で固く禁じられている行為です。
 もし、あなた方が日本の役人に連絡したならば、我々にとって深刻な問題となるでしょう。
 貴提督方に我々の望むところをお許し頂けるのであれば、明日の夜遅く、柿崎村の浜に伝馬船を1艘送ってお迎え下さい。
 市木公太、瓜中萬二 ※名前は偽名

 そして夜になった迎えが来なかったので、浜に小舟があるのを見つけて、2人は自ら漕いで、伊豆下田港に停泊中のミシシッピー号へ近づいて乗船した。
 その後、ポーハタン号に移されて主席通訳官ウィリアムスと漢文で筆談し、アメリカ渡航の希望を伝えた。
 ペリー提督は歓迎したいところだったが、アメリカと日本は条約を結んだばかりで、お互いの法律を守る義務があり、2人合わずに密航を拒否してしまう。

 ペリー提督の航海記には下記のように記されている。
「厳しい国法を犯し知識を得るために命をかけた2人の教養ある日本人の激しい知識欲は興味深い。この不幸な2人の行動は日本人に特有なものと信じる。日本人の激しい好奇心をこれ程現すものは他にない。日本人のこの特質を見れば、興味あるこの国の将来には、何と夢に満ちた広野が、何と希望に満ちた期待が開けていることか! 」

 吉田松陰は、小舟に刀や衣類、書物はもちろん、米一斗、かつおぶし、スルメなど大荷物を載せており、本気で渡米しようと考えていたようだ。
 しかし、交渉している間に、荷物を載せた小舟は流れて行ってしまい、アメリカのボートで福浦の浜まで送り届けられた。

密航企てを自首して投獄される

 2人は、流れて行ってしまった小舟が、幕府に発見される事を予測して、その前に幕府に自首し3月28日に拘束された。
 下田奉行所で取り調べを受けたあと、1854年4月10日、手錠・足かせで江戸に送還された。
 江戸に送られる途中、赤穂浪士の墓の前を通った際に「かくすれば かくなるものとしりながら やむにやまれぬ やまとだましひ」という有名な句を詠んでいる。

 4月11日には兄・杉梅太郎が江戸藩邸で謹慎となる。
 4月15日に北町奉行所で取り調べを受けた後、小伝馬町の牢屋敷に入った。
 吉田松陰に罪の意識はなく、周りの囚人に対して、黒船に乗り込んだと自慢げに話し、命が惜しいとは思わないと言っていたようだ。
 4月29日には、父・杉百合之助が蟄居謹慎処分。
 5月11日には、兄・杉梅太郎が萩に戻って謹慎生活に入り、杉家ではいつ、父や兄が切腹してもおかしくない、大変辛い状況になってしまい、小田村伊之助らも心配したと言う。

 ペリー提督は下田奉行所に過酷な罪は避けて欲しいと通告しており、老中・ 阿部正弘の助命もあって2人の命は許され、9月18日に国許で蟄居の栽決が下り長州に護送される事となった。
 9月23日、2人は罪人として籠に入れられ、萩に向かった。
 10月24日に萩に到着すると、吉田松陰は野山獄に、金子重之輔は岩倉獄へ投獄された。

 獄内では二十一回猛士の説を作ったが、佐久間象山らも連座して処罰が決定された。
 また、兄・杉梅太郎、父・杉百合之助、叔父・吉田文之進らも謹慎。

 1855年1月11日、金子重之輔(金子重輔)が劣悪な環境の岩倉獄で病死(享年25)。
 吉田松陰は大いに嘆き悲しんだとされる。

 3月には「士気七則」を書き、甥の玉木彦助の元服祝いに与えている。
 また、この頃、尊王攘夷の僧・月性が萩へ来訪し、吉田松陰と文通した。

 一方、野山獄で吉田松陰は600冊以上の本を読破したと言い、後に松下村塾の教授となる富永有隣と出会っている。また、玉木文之進に宛てて軍艦建造の必要性を説き、4月頃?から野山獄で「孟子」の講義を始めた。
 野山獄では、吉田松陰が提案し、囚人同士で勉強会を開くなどし、僧・月性宛の手紙では「もし自分が一生獄中にいることがあれば、すばらしい人間を生み出せるだろう」と記載している。
 こうして、野山獄を獄中で教育も行って更生の場にするため「福堂」に変えようと、獄中で大深虎之丞吉村善作富永有燐高須久子らと交流もし変えて行った。

 やがて、吉田松陰を獄から出そうとする運動もあり、相互教育の素晴らしさを感じた吉田松陰は、病気保養と言う名目によって1年2ヶ月で出獄を許され、12月15日に生家・杉家にて預かりの謹慎処分の身となった。
 これは吉田松陰の動向を耳にした藩主・毛利敬親の意向だったとも言われており、外界との交流は禁じられたが、その他は許された。

松下村塾で志士らを育成

 杉家では3畳半の部屋で読書をしながら謹慎生活を送ったが「七生説」を作り、1856年4月15日には、七生報国の信念を披露。
 尊王攘夷の問題を研究し、8月に入ると家族の薦めで、幽室から親族・近隣の者を相手に「孟子」の講義を行った。

 やがて、兵法・日本史なども始めると、単なる解説ではなく、吉田松陰独自の解釈が素晴らしいと評判になり、次第に萩城下に広がって行った。
 叔父の玉木文之進が開いていた私塾・松下村塾は、近所で塾を営む久保五郎左衛門が名前を引き継いでいたが、9月4日に吉田松陰が引き受けて主宰者となりると、初期の門下生となる吉田稔麿、玉木彦助、松浦亀太郎らが教えを乞い、のち幕末維新の指導者となる人材を多く教育した。
 当時の藩校である「明倫館」は武士を対象にした学校であったが「松下村塾」は私塾であった為、身分問わず入塾することができたのだ。
 吉田松陰は「自分を磨くために学ぶのだ」と、一方的に講義をするのではなく、生徒と意見交わす方法にて、個性・特性をのばす教育を行ったが、教えは甘えや妥協を許さない、極めて厳格なものだったという。
 
 10月14日、吉田松陰の釈放運動により野山獄に入獄していた者の過半数以上が釈放された。
 12月18日、梅田雲浜か京より萩に入り会見。松下村塾の額面を書いている。

 

 1857年、野山獄で出会った37歳の富永有隣を松下村塾の教授として招き、この年、高杉晋作が松下村塾の塾生となった。9月には品川弥二郎も松下村塾に入るなど、受講者が増えたため11月5日には納屋を改修。
 正式に吉田松陰主宰の松下村塾を開き、武士・農民関係なく多くの塾生を受け入れた。
 講義は室内だけでなく、農作業を共にしながら行なわれるなど、心身両面の鍛錬に重点が置かれたという。
 久坂玄瑞(18歳)、中谷正亮(27歳)、吉田稔麿(17歳)、久保清太郎(26歳)、高杉晋作(19歳)、伊藤博文(17歳)、品川弥二郎(15歳)、前原一誠(24歳)、入江九一山県有朋山田顕義野村靖など、後に京都で志士として活動する者や、明治維新で新政府に関わる者などが教育を受けた。松下村塾の三無生は増野徳民、吉田稔麿、松浦松洞とされる。
 ただし、井上馨は、江戸詰めであったりするなどして、松下村塾では学ぶ機会はなかった。

 そんな中、妹の杉文は、12月に久坂玄瑞と結婚。

 1858年、伊藤利助が萩に戻ると松下村塾に出入りを始め、伊藤俊輔と改名した。
 1月6日、「狂言の言」を書き藩主に上呈。
 2月19日、竹島開拓の意見書を桂小五郎に送る。
 3月11日、松下村塾の増築が完成。
 4月12日、久坂玄瑞より勅諭煥発を知り、時事に関する意見を門人に与え激励し「対策一道」を作った。
 5月12日、幕府の勅答を聞くと直に「愚論」「アメリカ人取扱方」の議二文を著し「対策」「愚論」を梁川星巌に贈った。
 6月15日、藩主が江戸より帰国すると「狂夫之言」を見て上書建言。
 7月1日には松下村塾生の軍事調練を行った。
 7月13日、大義を議論。この頃が松下村塾の最盛期となった。

安政の大獄により再び投獄される

 攘夷に燃える吉田松陰らの思いとは裏腹に、徳川幕府はしだいに外国に屈して行くこととなり、江戸幕府が天皇の勅許なく日米通商条約を結んだ事を知ると、全国各地の尊王攘夷派は激しくこれを非難。
 批判する尊王攘夷派勢力に対し、大老の井伊直弼は弾圧を行った。安政の大獄である。
 吉田松陰は、朝廷を厳しく取り締まるため京都に派遣された老中・間部詮勝の暗殺を企て、1858年11月に塾生から賛同者を募った。
 そして、周布政之助に、老中・間部詮勝を暗殺するから武器などの支援して欲しいと手紙を出したが、さすがにこれは過激すぎると容認には至らなかった。
 暗殺計画を知った長州藩は幕府からの処分を恐れ、動きを封じ込める為、12月26日、吉田松陰を再び野山獄へ投獄し、松下村塾は閉鎖。
 ともあれ、野山獄では高須久子と再会も果たしている。

 1859年1月11日には、老中・間部詮勝要撃計画の中止を求める高杉晋作・久坂玄瑞らの手紙を受け取っている。そして、老中・間部詮勝の暗殺に反対した江戸にいる塾生に批判の返書を書き、牢獄内で憤激の絶食を始めたが、その後、家族の説得で絶食は中止した。
 また、この間、諸国の同士が松陰のもとを訪れ「要駕策」を練っている。

 吉田松陰の計画(伏見要駕策)は、安政の大獄で獄死した梅田雲浜より幕府側に漏れたともされ、計画に協力した門下生・入江杉蔵(入江九一)は長州藩によって岩倉獄へ投獄された。
 京で暗殺計画を実行できなくなった入江杉蔵の弟・野村和作も自首し、萩に護送され、岩倉獄へ投獄されている。
 これに吉田松陰の思想はより過激化し、徳川幕府も長州藩士たちもあてにはならないとする、草莽崛起(そうもうくっき)を唱えた。
 このように過激になった事で、3月頃からは一部の門人からも敬遠され始めた。

 そんな中、4月19日になって江戸幕府より長州藩江戸屋敷に、吉田松陰の江戸送致命令書が届き、4月21日に長井雅楽が長州へ向けて出発し、5月13日ら萩に召還状を届けた。
 吉田松陰との別れを惜しむ多数の塾生や友人たちの訪問を受けた他、久坂玄瑞の提案で、5月16日に松浦松洞が吉田松陰の肖像画を8枚描き、自ら賛(画添える文)を記載した。
 江戸送致の前日である5月24日に獄史・福川犀之助の配慮で一夜だけ杉家に帰る事が許され、自宅に戻って家族に別れを告げると、5月25日、野山獄から護送用の籠に入れられ江戸向けて萩を発つも、再び故郷の地を踏むことはなかった。

 重要罪人とし役人5人、中間15人の合計20人が護送役として同行したと言う。

江戸にて斬首刑

 6月25日に江戸に到着すると、長州藩・桜田藩邸の牢屋に入れられたのち、7月9日に評定所から呼び出されて伝馬町の牢獄へ投獄された。
 評定所にて寺社奉行の松平宗秀、勘定奉行の池田頼方、町奉行の石谷穆清らより、9月5日と10月5日、10月16日と3度の取り調べを受け、容疑は晴れ長州藩邸に戻されようとなる。
 しかし、自分の主張が正しいと信じる吉田松陰は、今こそ幕府に直接自分の考えを言える時が来たと「間部詮房」暗殺計画や「要駕策」についても自ら堂々と「正義だ」と話し、自らの思想を大いに語ったとされる。
 いかにも吉田松陰らしいが、幕府は暗殺計画などは事前に把握しておらず、驚いた幕府は死刑を言い渡すのである。
 死を覚悟すると10月20日には遺書となる「永訣の書」「諸友に語ぐる書」を書き、10月25日には「留魂録」を書き始め、26日に書き終えた。
 1859年10月27日朝、死罪を申し渡され、同日の午前10時に伝馬町の獄において、首切り役の山田浅右衛門により斬首刑に処された、享年30(満29歳没)。

 吉田松陰は「御免」と一言、入ってくるなり「各々方ご苦労でござる」と一礼。
 「まず鼻をかみ申さん」と鼻をかんだ後、自分の首を差し出し「いざ」と一言放ち、本当に潔い姿であったと言う。
 処刑を行った「首切り浅右衛門」は、後年「長州の吉田寅次郎。こんな男を切ったのはただ一度だ。」と証言している。

 辞世の句は下記の通り。
 弟子宛「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」
 家族宛「親思ふ 心にまさる 親心 けふのおとずれ 何ときくらん」

 牢屋敷に遺体の引き取りにおいては多少問題が発生したが、獄役人4人に1両1歩づつを贈り、10月29日 桂小五郎、伊藤俊輔、飯田正伯、尾寺新之允が吉田松陰の遺体を引き取って千住回向院に埋葬した。

 安政の大獄の最後の犠牲者となった吉田松陰の遺骸は、現在、東京・世田谷にある松陰神社に葬られており、訪れる人が絶えない。

 

 吉田松陰の思想と魂は、高杉晋作らによって、受け継がれ、長州藩は倒幕に向かって突き進むこととなる。

 吉田松陰は好んで酒を飲むということはせず、煙草も吸わず、女遊びもしない、いたって謹直な人で、学問を「人間とは何かを学ぶことである」と言っている。
 また「学者になってはいけない。 実行しなければならない」とも言い、学んだことを活かし実行に移す大切さを強く説いた。

 以上、かなりの長文、最後までご覧頂き御礼を申し上げる。

 (参考) 吉田松陰.com、Wikipedia

 →吉田松陰の人物像に迫る
 →留魂録の内容についてはこちら ※個人的にお勧め致します
 →NHK大河ドラマ「花燃ゆ」 キャスト一覧
 →月照とは~尊皇攘夷派の僧侶である月照はなぜ錦江湾で入水自殺したのか?
 →東京にある吉田松陰の墓

 

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