広岡正秋(広岡久右衛門正秋)  あさが来た加島屋の9代目当主


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 広岡正秋(広岡久右衛門正秋)は、広岡信五郎の弟で1844年生まれ。
 広岡家は、大阪の玉水町(大阪市西区土佐堀通)にて、米問屋と両替業を兼営していた「加島屋広岡家」。
 堂島米市場の重鎮として、徳川幕府や諸藩の財用に貢献していた。

 NHKの朝の連続テレビ小説「あさが来た」では、両替屋「加野屋」の次男・白岡新次郎の弟・白岡正太郎が、この実在した広岡正秋(広岡久右衛門正秋)である。

 1867年、その加島屋広岡家の広岡信五郎に、京都・油小路通出水の小石川三井家の娘・三井浅子が嫁ぐと、その広岡浅子が明治維新で混迷した広岡家を広岡久右衛門と共に助けた。
 加島屋はこの広岡正秋(広岡久右衛門正秋)が継ぐ事になったようで、広岡浅子の夫・広岡信五郎は、分家を継いでいた模様だ。

 先代の死後、広岡久右衛門正秋は加島屋の9代目当主となり、明治新政府の会計基立金徴募、明治天皇東幸の御用掛、為替会社・通商会社惣頭取などをを歴任する。
 

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 明治14年(1881年)に、長田なつを妻に迎えている。
 1888年(明治21年)に、加島銀行を設立すると、その頭取に広岡正秋(広岡久右衛門正秋)が就任した。
 1889年には大阪の有力財界人が参加して尼崎に「尼崎紡績」を設立し初代社長になったほか、朝日生命の経営にも参画。
 これは、浄土真宗の門徒を対象にした真宗生命が経営破たんし、門徒総代格だった広岡家が再建を託されたと言う事になり「朝日生命」として再スタートしたのだが、以前として経営は厳しかったと言う。

 そこで、広岡浅子の提案で、北海生命保険、護国生命保険と合併すると、1902年7月に大同生命が誕生し、広岡正秋が初代の大同生命保険会社社長に就任した。
 「小異を捨てて大同につく」と言う事で大同生命と言う名称にしたと言う。

 その後も堂島米穀取引所理事長として大阪の経済発展に貢献。

 1901年に開校した「日本女子大」設立の際には、広岡浅子に協力し、多額の資金を提供した。

 明治42年(1909年)6月20日に死去。

 なお、広岡家の当主は、歴代・広岡久右衛門(ひろおかきゅうえもん)を名乗る為、混同しない様注意が必要だ。

 →白岡榮三郎の嫁「さち」のモデルと考えられる長田なつとは?
 →広岡浅子の波乱な生涯はこちら
 →あさが来た~キャスト一覧/出演者一覧

 

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