沼崎吉五郎と飯田正伯に託された2通の留魂録(吉田松陰の遺書)


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 吉田松陰は、死の間際に書き残した「留魂録」が残された門下生になんとか届くよう「2通」作成していた。

 1通は処刑後、遺体を引き取った1人である門弟・飯田正伯が入手。
 写書されるなどし萩の高杉晋作久坂玄瑞ら主だった塾生に読まれるに至り、志士らが意思を引き継ぐ、行動力の源となった。
 現本はいつしか失われたが、書写されたものが現在伝わってる。

 飯田正伯(いいだしょうはく)は、1825年生まれの長州藩士で、50石の長州藩医の子であったが、1858年に吉田松陰の松下村塾に入り、主に兵学を学んでいた。
 安政の大獄で吉田松陰が刑死した際に、桂小五郎伊藤博文らと共に遺骸を引き取ることに成功している。
 その後は長州藩の分析掛として主に銃器などの管理・調整を任されたが、1860年7月、軍用金調達を名目に浦賀の富豪を襲った際に金品を強奪したとして、幕府に捕縛されて1862年6月1日、獄中にて病死した。

 もう1通の「留魂録」は吉田松陰が福島出身の沼崎吉五郎に遺品と共に託した。
 この沼崎吉五郎は、福島藩士・能勢久米次郎の家臣だったようで、のちに江戸の旗本に仕えていた。
 その際、刃傷沙汰で捕まり、小伝馬の牢屋敷に入ったようだが、無実の罪ともする説もある。

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 そして、吉田松陰が小伝馬の牢屋敷に入った際の牢名主がこの沼崎吉五郎だったのだ。
 沼崎吉五郎が小伝馬の牢から三宅島へ遠島となった際、預かった「留魂録」を褌(ふんどし)の中に隠して持ち出し、明治維新を迎えたが吉田松陰との約束を果たす。

 沼崎吉五郎は1874年(明治7年)に赦免されて東京に戻り、1876年(明治9年)に神奈川県権令となっていた野村靖を訪ねて留魂録を渡した。
 野村靖が吉田松陰直筆の留魂録を夢中になって読んでいるうちに、この老人はひっそれと姿を消し、その後の事はわかっていない。
 現在、沼崎吉五郎が所持していた留魂録は、萩の松陰神社に収められている。

 山口県出身の直木賞作家・古川薫さんが現代文訳した「留魂録」が、最も吉田松陰を理解した解釈となっており、読む者の胸を打たずにおかない。

 →留魂録の内容についてはこちら

 

 →野村靖~長州藩の勤皇の志士で明治政府でも活躍する

 

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