野村靖~長州藩の勤皇の志士で明治政府でも活躍する


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 野村靖(のむらやすし)は、1842年8月6日に長州藩の下級武士・入江嘉伝次(足軽・無給通士)の次男として生まれた。通称を野村和作、野村靖之助という。
 兄に入江九一がいるが、兄が家督を継いだ為、野村靖は親戚の野村家に養子に入り野村家を継承。しかし、扶持方二人(米2石4斗)という貧乏侍であった。
 妹・すみ子が、伊藤博文の最初の妻になっている。

 1857年、16歳で兄・入江九一と共に吉田松陰松下村塾に入門すると尊王攘夷の活動を行う。
 1558年、吉田松陰が公家・大原重徳の西下を計画した際、密使となって京都に入るが失敗。
 1559年2月、兄・入江九一と代わって、吉田松陰の伏見要駕策のため奔走したが、これも失敗して3月、萩城下の岩倉獄に投獄された。
 1860年3月、兄と共に釈放されると、吉田松陰の過激な攘夷運動に加わり、公武合体を唱える長井雅楽の暗殺計画に名を連ねた。
 1862年にはイギリス公使館の焼き討ちにも参加。
 1863年、吉田松陰に師事したことが認められ、士籍に列せられる。また、妹・入江すみ子が伊藤博文と結婚。(1866年に離婚)
 1864年、兄・入江九一は禁門の変で戦死。
 1865年、野村靖は藩内戦や、1866年の長州戦争(芸州口)などでも活躍した。

 明治維新後は政府の要職を歴任。
 その頃、吉田松陰と江戸小伝馬町の牢獄で一緒だった沼崎吉五郎から、吉田寅次郎の遺書「留魂録(りゅうこんろく)」を受け取っている。

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 宮内大丞、外務大書記となると、岩倉使節団の一員としてヨーロッパの視察にも参加し、帰国後外務省に出仕した。
 その後、神奈川県令・駅逓総監・逓信次官を歴任し、明治20年(1887年)に子爵に叙せられる。

 明治31年(1888年)には枢密顧問官、明治34年(1891年)に駐フランス公使を歴任。

 明治37年(1894年)、第2次伊藤内閣の内務大臣に就任。
 明治38年(1895年)に東京府を廃止して東京15区を「東京都」として独立させて政府支配を強化。他の地域を多摩県として再編成させる「東京都制および多摩県設置法案」を出したが、帝国議会(第9議会)や東京市民の反感を買って廃案となり、責任を取って辞任した。

 しかし翌39年(1896年)には第2次松方内閣の逓信大臣に就任。

 晩年は政界を退き、富美宮・泰宮両内親王の養育掛長を長くつとめ、明治42年(1909年)に鎌倉御用邸にて68歳で死去した。
 遺言により、世田谷にある吉田松陰の墓域内に埋葬されている。

 

 →沼崎吉五郎と飯田正伯に託された2通の留魂録(吉田松陰の遺書)
 →野村靖の墓もある東・松陰神社

 

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