留魂録と要駕策とは 吉田松陰の江戸送致と留魂録の意味・概要


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 幕末の長州藩士・吉田松陰は、黒船密航の罪で野山獄への投獄、のち自宅謹慎となり「松下村塾」を開き若者と共に学んでいたが、1858年に、老中・間部詮勝を暗殺するため、長州藩に武器の提供を求めた事から、驚いた藩は吉田松陰の動きを封じる為に再び野山獄に投じた。

 しかし、吉田松陰は野山獄の中に居ても、要駕策(伏見要駕策)を練って、松下村塾の門下生に指示。
 内容としては、長州藩主・毛利敬親が参勤交代のため伏見を通過する際に、大原三位卿に自ら伏見まで出掛けてもらい、毛利敬親を説得して京都に招き入れ、孝明天皇に対して幕府の失政を追及してもらうように嘆願させようとしたものだ。
 結果的には老中・間部詮勝を暗殺と共に事前に藩に露見し、入江久一と野村靖岩倉獄に入獄することとなった。

 一方、大老・井伊直弼の安政の大獄により捕えられていた梅田雲浜から、吉田松陰の名が上がり、幕府は吉田松陰を取り調べる為、江戸送致を長州藩・江戸藩邸に伝達。

 徳川幕府は、吉田松陰から梅田雲浜との交友関係や、御所内で発見された落し文の持ち主の確認を行おうと江戸に呼んだようで、取り調べでは幕府の方から吉田松陰らが練った「要駕策」や老中・間部詮勝暗殺計画を問いただす事はなかったようだ。
 ※諸説有り
 そのため、幕府の取り調べで、当初は吉田松陰を江戸・長州藩邸に戻す事を許そうとしていたと言う。

 しかし、吉田松陰は、自分が老中暗殺を考えたことで野山獄に入れられ、その後江戸に送られたと言う経緯もあり、また黒船密航の際にも自首したように、幕府の取り調べにおいても、唐突に自ら老中を暗殺しようとしたと堂々と述べてしまう。
 そのため、嫌疑は一転して「重罪」の取り調べに変わり、小伝馬町の牢屋敷へ投獄される事となった。

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 その後、何回か取り調べが行われ、死罪を察した吉田松陰は1859年10月25日~26日に、牢屋敷にて「留魂録」と言う遺書を書き上げる。
 留魂録(りゅうこんろく)は大急ぎで書き留めたものだが、文脈に乱れはなく冷静に記載されている。
 
 冒頭に「身はたとい武蔵の野辺に朽ちぬとも、留め置かまし大和魂」という有名な辞世の句に始まるが、ただの遺書ではなく、松下村塾の門下生に対して書いた5000字に及ぶ文章だ。

 全十六章からなる留魂録では、橋本左内、矢部駿州、小林民部など小伝馬に繋がれた志士にも触れているが、吉田松陰は「老中・間部詮勝暗殺計画の事を、幕府は既に承知していると思い、誤解なきように明白に述べたが、幕府は全く知らなかった。その為、肝心なところまでは言及せず、私1人の罪だと述べて置いた」とも記載している。

 なお、吉田松陰の人柄があふれる肝心の第8章に関して、意味合い的には私は下記のように解釈している。

 1つも事を成せずに死ぬ事となるが、人間の一生を「穀物の四季」に例え、何歳で死んだとしても、冬を乗り越え春がやってくれば、自分が蒔いた種から、また眼が出て穂を出し、実となり収穫となって喜ばれる。収穫を持って悲しむ者はいない。
 すなわち、例え自分の身が滅んでも、心ある志士が私の大和魂を受け継いでくれるのなら、自分が蒔いた種から絶えず実がなり収穫を迎える。
 このように繰り返されて、私の魂は永遠のものとなり生き続ける。
 よって、死を覚悟しても平穏な心境でいられるのだ。

 非常に心に響く言葉であり、涙があふれてくる・・。

 1859年10月27日朝、伝馬町の獄において、首切り役の山田浅右衛門により斬首刑に処された、享年30(満29歳没)。

 → 沼崎吉五郎と2通の留魂録

 

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