高須久子~野山獄での吉田松陰との俳句


スポンサーリンク
スポンサーリンク

 高須久子(高洲久子)は、萩藩でも330石と言う高禄である名門・高須家の跡取り娘。(生年月日は不詳)
 この高須家は毛利家に代々仕えた毛利家臣・杉原三家の1つで、高杉晋作も遠縁だと言う。

 婿養子の夫が若くして亡くなった後、高須久子は趣味の三味線にいつしか没頭するようになると歌や浄瑠璃などをして毎日過ごすようになった。
 そして、当時、萩で有名だった芸能人の勇吉と弥八らと交流するようになり、自宅に招いて酒を振舞ったり、翌朝までそのまま宿泊させたりしたと言う。
 この当時、芸能で身を立てる者は、いわゆる部落民など身分が低い者が多く、また武家の未亡人が男を一晩泊めると言うのは非常に外聞の悪いことであり、亡き夫の養父から不義密通を疑われ、親族から萩藩に訴えられて取り調べを受けたのだ。

 高須久子は「すべての人は平等である」と言う理念を持っていたようで、「普通の人と普通の付き合いをしたまで」と釈明したが反感を買い、結果的に家族の申し出により、野山獄へ借牢(私的な入獄)された。

 そんな折、1854年、吉田松陰黒船への密航企ての罪で、江戸から萩に送致されると、野山獄に投獄された。

 野山獄には11人ほどの囚人がおり、最年長は在獄42年で74歳の大深虎之助、37歳の富永有燐(富永弥兵衛)(後に国木田独歩の小説「富岡先生」のモデルになった人物)らが投獄されており、吉田松陰は25歳と一番若かった。
 その囚人の中に紅一点、在獄2年の高須久子がいたのである。

 大河ドラマ「花燃ゆ」では、高須久子が吉田寅次郎に頼むシーンが出てくる。
 野山獄に通う妹の杉文に「亡き父の菩提を弔いたいので高須家を訪ねて遺品を貰い受けてきた欲しい」と頼むのだ。
 すなわち、高須久子は家族からも見放されて、面会や書状のやり取りすら叶わなかった状況とされている。

 さて、野山獄に入った吉田松陰は若かったので、当初、他の囚人からは軽視されたが、次第に仲良くなり、吉田松陰が長崎で学んだことを講義するようになった。
 また、俳句が得意な者は御礼に俳句を教えたりするなど、お互いの囚人同士で得意分野を講義しあうと言う交流も始まり、一種の獄中サークルのようになったと言う。
 やがては看守・福川犀之助までが、その輪に参加して、吉田松陰の講義に耳を傾けたと言うのは有名な話だ。

 なお、長州藩の野山獄と言っても、藩の罪人は2名のみで、他の者は親族から申し出による入獄であった為、囚人同士が集まったり、話をしたりと行動は自由であったようだ。
 もちろん、武家向けの牢獄だったので、拷問などもなくて差し入れ自由と、親戚縁者が支援する限りは食べ物にも困らなかった。
 高須久子の元には、娘・高須糸が訪ねても来た。しかし、借牢の場合は刑期(期限)がない(事実上の無期禁固)と言う問題もあり、出獄は夢の話だったのだ。

 高須久子は、吉田松陰より12歳年上の37歳だったとされるが、高禄の高須家で育った為、当然、短歌や俳句の知識もあり、吉田松陰と交流するようになった。
 吉田松陰が杉家預りの謹慎と刑が軽減されることとなると、野山獄を出る際に高須久子は「鴨立ってあと淋しさの夜明けかな」の一句を贈っている。

 出獄後、吉田松蔭は長州藩に野山獄の囚人釈放を働きかけ、約80%の囚人が出獄できたと言い、獄中知り合った富永弥兵衛(のちの富永有隣)を開設した松下村塾の講師に招いて、高杉晋作、久坂玄随、木戸孝允山県有朋伊藤博文ら門下生が学んだ。
 しかし、高洲久子は親族が反対して釈放されていない。

スポンサーリンク


 吉田松陰がが徳川幕府の老中・間部詮勝を暗殺する計画と、仲間である梅田雲浜の奪還計画を知った長州藩は、再び野山獄に投獄し、松下村塾を閉鎖する。
 このようにして、再び高洲久子と再会し、獄居と家居も大差はないと吉田松陰は書き残しているが、約6ヶ月後、吉田松蔭の身柄は江戸へ送られる事となった。
 高須久子は、吉田松陰が江戸に送られる2日前に、獄中で自ら手縫いした「手布巾」を贈り、吉田松蔭はお返しに「箱根山 越すとき汗の い出やせん 君を思ひて ふき清めてん」という一句を贈った。

 出立当日、高須久子が「手のとはぬ 雲に樗(おうち)の 咲く日かな」と別れの一句を贈ると、吉田松蔭は一通の封書を手渡したと言う。
 その封書の中には「一声を いかで忘れん ほほとぎす」と記載されていた。

 このように高須久子が吉田松陰に対してほのかな恋心を抱いたとも、吉田松陰が最初で最後の淡い恋をした相手が高須久子だったとも云われている。

 江戸に送られた吉田松陰は1859年10月27日、江戸伝馬町で処刑され、29日に桂小五郎伊藤俊輔らによって小塚原回向院に埋葬された。(のち松陰神社に改葬)

 その後、野山獄に入った高杉晋作や小田村伊之助とも交流があったものと推測されるが、高須久子は、明治元年(1868年)になり新政府が樹立されると野山獄は廃止された為に出獄した。
 しかし、最後まで家族との関係は悪く、高須家には戻らなかったと言う。
 この時、51歳くらいと言う年齢だと推定され、明治に入ってどのような生活をしたのかは不明だが、近年2003年になって、吉田松陰の門下生である元長州藩士・渡邊蒿蔵の遺品が萩市に寄贈された際、一首の歌が書かれたお茶碗が発見された。
 その茶碗は、吉田松陰が野山獄で使っていた形見とも考えられている。

 「木のめつむ そてニおちくる 一聲(せい・声)ニ よをうち山の 本とゝき須(ホトトギス)かも」と、茶碗に釘のような物で彫られており、最後に「久子 六十九歳」とあり、

 晩年の高須久子は、長い獄中生活が祟り、目は衰えて、足が萎えて曲がらなかったと言うが長寿を全うし、明治37年、88歳でこの世を去った。

 → 野山獄とは?
 → 吉田松陰の詳細版

 →吉村善作富永有燐河野数馬大深虎之丞志道又三郎井上喜左衛弘中勝之進・栗屋与七・岡田一廸
 →とてもいい人? 獄吏・福川犀之助

 →花燃ゆの「後半戦」で注目の「幾松」も是非知っておきませんか?

 

この記事が気に入ったら
いいね!しよう

最新情報をお届けします

Twitter でフォローしよう!

スポンサーリンク


関連記事

Loading Facebook Comments ...


メールでお知らせ

メールアドレスを記入して購読すれば、新規記事追加をメールで受信できます。

ページ上部へ戻る