幾松(木戸松子)~京の舞妓で桂小五郎の恩人


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幾松(いくまつ)は、若狭小浜藩士・木崎市兵衛の娘として、1843年に生まれた。
母は三方郡神子浦の医師・細川益庵の娘・末子。

父・木崎市兵衛は、若狭小浜藩主・酒井忠義に仕え、町奉行の祐筆であったが、藩内の事件から罪となり、閉門になった。
その後、妻子を残し京都へ出奔。

母・末子は子供を連れ実家の細川家に戻ったため、幼少のおり幾松は神子浦で約5年間を過ごした。

その後、1851年~1852年頃、9歳ころのとき、京に移った。
転居した理由は諸説あり、詳しくはわかっていない。

NHK大河ドラマ「花燃ゆ」にて演じる女優さんは、雛形あきこさん。

いずれにせよ、幾松は舞妓としての修業に入ったようで、一条家諸大夫の次男・難波常二郎(難波恒次郎)の養女となった。
この難波常二郎の妻は、元・三本木の芸妓であり初代「幾松」を名乗っていた縁で、1856年、14歳のとき、三本木「吉田屋」にて舞妓・幾松を襲名した。

幾松は笛と踊りが得意で、瞬く間に有名な芸妓へと成長。

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桂小五郎との出会い

1861年になると、京で活動を始めていた長州藩主・桂小五郎と知り合う。
その頃の幾松は、山科の豪家が大層贔屓にしていたが。桂小五郎は張り合って、双方ずいぶんなお金を使用したと言う。
最後には伊藤博文が刀で脅して、幾松は桂小五郎のものになったと、後年、児玉愛二郎が語っている。

吉田屋では新選組に追われる桂小五郎を、幾松が匿い逃したという話も残されている。

池田屋の変につづいて、長州藩が禁門の変で敗れると、二条大橋の下に乞食の姿となって潜伏したあと、今出川の東(賀茂川大橋の近く)の掘立小屋に隠れた桂小五郎に、握り飯を運ぶなど、幾松は京で最も困難にあっていた桂小五郎を支援し、尊王攘夷活動を助けた。
幾松は、新撰組局長・近藤勇に連行されて、桂小五郎の居場所を聞かれたこともあったと伝えられており、そのような時は、難波家の母に頼んで食料などを届けてもらったようだ。

その後、残党狩りが盛んになったため、桂小五郎は京から離れて、出石などに名を変えて潜伏し廣戸甚助・廣戸直蔵兄弟の援助受けたが、やがて、幾松は新選組や会津藩などから監視されるようになり、幾松は長府藩士・奥善五六郎と、京師東山の割烹店の主・曙久斎らによって、対馬藩濱屋敷に匿われた。

伊藤博文の回想によると探索にきた幕吏が幾松の美貌に惹かれて彼女にイタズラしようと、幾松は三味線を膝にかけてへし折って投げつけると、対馬藩の屋敷に飛び込み対馬藩士・多田荘蔵の保護を受けたとある。
この対馬藩士・多田荘蔵も自身の身の危険を感じていた事もあり、幾松を連れて京を離れる決意をする。
しかし、桂小五郎が潜んでいる出石に行けば、桂小五郎も捕まってしまう恐れがあった事から、長府の興膳五六郎(藩医・昌蔵の弟)や自分の愛妾などに、幾松を加えて合計6~7人で京都を発ちって馬関(下関)に向ったと言う。

高杉晋作大村益次郎らが長州藩の政権を奪取するのに成功すると、1865年2月初め、廣戸甚助が幾松のもとを訪れ、桂小五郎が出石に潜伏しているのを知る。
廣戸甚助は、桂小五郎が幾松を心配する思いを知り、11月末には京都に行って、幾松が馬関(下関)に逃れたことを確かめていたのだ。

そして、村田蔵六から桂宛の手紙と50両を預かり、幾松と廣戸甚助は出石へ向った。
その途中、大阪で廣戸甚助が博打で50両を使い果たして姿を消した為、最後、幾松は1人で出石まで行ったようだ。
無事、3月3日に出石に到着して、桂小五郎と再会を果たすと、やがて廣戸甚助も合流したがのち「木戸公がいくら取り成しても夫人は横を向いていた」と廣戸甚助の妹・廣戸スミが「松菊木戸公逸話」の中で語っている。
この時、桂小五郎は幾松、廣戸甚助・その弟の廣戸直蔵を伴って城崎温泉に行き、その後、神戸・金毘羅山などに立ち寄り、下関へと帰国。
1865年9月29日、藩命によって桂小五郎は木戸貫治(木戸孝允)に改名。
木戸孝允(桂小五郎)は長州藩の指導者として、中岡慎太郎坂本龍馬らと交流し、西郷隆盛薩長同盟を結ぶなど、倒幕に突き進んでいった。

そして、幾松は糸米で木戸孝允(桂小五郎)と生活を始めている。

新政府で木戸孝允(桂小五郎)は、外国事務掛・参与・参議・文部卿などを兼務。

1868年(明治元年)8月頃、正式に結婚したようで、幾松は長州藩士・岡部富太郎の養女となって結婚すると「木戸松子」と名乗った。
これは、身分差を超えた初めての正式な婚姻であったと言われている。

明治2年(1869年)6月からは、木戸孝允が活躍する東京に住まいを移し、一緒に箱根などにも出掛けているが、木戸孝允は宴席にも木戸松子(幾松)を伴うことが多かったようだ。
明治7年(1875年)、台湾出兵問題で木戸孝允が下野して、山口に帰った際にも一緒に帰っている。

この明治7年(1874年)の記録では、6月から京都土手町にあった木戸孝允の別邸に、留守居役として幾松の父・木崎市兵衛や母・末子ら家族が暮らしたようだ。

木戸孝允は明治10年(1877年)5月6日、京都出張中に病に倒れ、危篤の報を聞き、木戸松子は東京から馬車を乗り継ぎ、4日間掛けて京都へ到着した。

京都土手町の別邸で、日夜熱心な看病を続けたが、5月26日、原因不明の脳病の発作及び胃病により、木戸孝允は病死した。

木戸松子は薙髪し「翠香院」と号して、京都木屋町に住み、二人の想い出深い京都にて木戸の墓を守った。



当時7歳だった養子・木戸忠太郎(幾松の妹・信と、土佐藩士・松本順造との子)の回想では、木戸松子は木戸忠太郎と、1~2人の下女と共に木屋町別邸で余生を過ごした。
晩年の木戸松子にとっては、忠太郎の養育が生きがいだったようだ。

明治19年(1886年)4月10日午前4時、上京31組上樵木町(現住所:京都市中京区木屋町通御池付近)18番地の寄留所にて、木戸松子は胃病により病死した。享年44。

洛東霊山墓地の夫・木戸孝允の墓の北隣に眠る。
法名は翠香院釈貞秀大姉。

長持

長州藩控屋敷 (木戸別邸) は、現在、料理旅館・幾松 になっている。


旅館「幾松」

幾松の部屋にある「長持」には、こんなエピソードがある。

幾松が酒を買いに出掛けると、新選組の姿を見かけた為、急いで屋敷に戻って、桂小五郎に知らせようした。
その時、桂小五郎は既に新選組に気づいていて、刀に手をかけて応戦しようと構えていたと言う。

それを見た幾松は、部屋に置いてあった「長持」の中に隠れるよう言うと、桂小五郎は入ったと言う。

やがて新選組が屋敷の中に踏み込んできて探索したが、どこにも桂小五郎が見当たらず、幾松の部屋に来た。

この時、幾松は、桂小五郎が隠れた長持の前に座わって、三味線を弾いていたと言う。

近藤勇が部屋に入ってきて、長持の蓋に手をかけると幾松は、三味線のバチで近藤勇の手を払って言った。
 
「これほど屋敷内を改めて私に恥をかかせた上、もしも、この長持の中にどなたもいないとなれば、近藤はん、責任とって、この場で切腹してくれはりますか? その覚悟がおありどしたら、どうぞ改めておくれやす。」

この幾松の度胸に、さすがの近藤勇は長持を改めることなく「すまなかった」と言って、立ち去ったと言う。

桂小五郎(木戸孝允)の詳細はこちら
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