辰路(芸妓)と久坂秀次郎 幕末の激動に翻弄された人生


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 辰路(たつじ)は、幕末の京で活躍した芸妓で、1846年生まれ。本名は井筒タツ。辰次、お辰とも呼ばれる。
 京都島原・桔梗屋の芸妓であり、京で尊王攘夷活動を行った久坂玄瑞となじみ深くなった。

 1864年7月19日、久坂玄瑞は禁門の変にて自決。妻の久坂文(杉文)は22歳にして未亡人となった。

 その2ヶ月後の1864年の9月、辰路は子・久坂秀次郎を生んだが、久坂玄瑞との間の子とも。また、久坂玄瑞のもう1人の馴染みの佐々木ひろ(伏見)の子?であるとも伝わる。

 その為、杉文は久坂玄瑞の死後に、隠し子がいたことがわかったのだが、久坂玄瑞の存命中に既に久坂米次郎(小田村伊之助杉寿の子)を養子に迎えていた為、久坂秀次郎は久坂玄瑞の縁者である長州藩徳佐村の酒造家に託されたと言う。
 しかし、明治2年に長州藩が辰路の子・久坂秀次郎を久坂玄瑞の子であると認定。
 このような状況に、養子を出した小田村伊之助(楫取素彦)と杉寿や杉文は頭を悩ませたと言い、久坂文の兄・杉梅太郎(杉民治)にも相談している。

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 一方、24歳頃と考えられる辰路は明治3年(1870年)4月、当時の角屋当主(10代目)と桔梗屋の女将の仲介で、下京の豪農・竹岡甚之助と結婚した。
 この時、久坂秀次郎は負野家に養子に出された?ようで、改名している。

 結果的に、明治12年(1879年)9月、辰路の子・久坂秀次郎(15歳)が久坂家を継ぎ、そして養育費は楫取素彦が負担。
 養子に入っていた久米次郎は小田村家(楫取家)に復籍する事となった。

 辰路は嫁いだ先で3人の子を設けて育て、明治43年(1910年)に死去。65歳。
 墓所は京都市西七条の安阿弥寺。

 久坂秀次郎は久坂家を継いだ後、大倉組(ホテルオークラ・大成建設などの大倉財閥)で勤務し、台湾支社赴任もした事がわかっている。
 昭和7年(1932年)4月、69歳で東京にて死去。
 戸籍上の母は井筒タツとなっている。

久坂玄瑞についてはこちら
小田村篤太郎(楫取希家、小田村希家)と小田村久米次郎(楫取道明)、杉小太郎(吉田小太郎)も
三条実美についてはこちら 
八月十八日の政変はこちら
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