清河八郎とは 尊王攘夷・倒幕を目指した文武両道の策士


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清河八郎(きよかわはちろう)は、出羽の庄内藩にある清川村(山形県東田川郡庄内町)の郷士・齋藤豪寿(齋藤治兵衛)と亀代(鶴岡三井家の娘)の長男として、1830年10月10日に生まれた。
清河八郎の幼名は元司、名は正明。

斎藤家は、庄内随一の醸造を行っていた酒屋で、兄弟は弟に熊次郎、熊三郎、妹に辰代、家の5人兄弟。

1833年、4歳のとき「天保の大飢饉」となり、清川村も天候不順や最上川の大洪水などで大凶作の年となった。

しかし、庄内藩の年貢米取立ては厳しく、村人の生活は困窮したと言う。
そんな折り、清川村の若者16人が齋藤家の蔵で預かっていた藩の米を盗むという事件が起こる。
この時、4歳の清河八郎は蔵の酒造用大釜の陰に隠れて見てさまを、すぐさま家人に話し、押し入った16人全員が捕獲され、藩に引き渡された。
父は庄内藩に助命嘆願を行ったが、1人は追放で残りの15人は斬首と言う厳しい処分となったが、僅か4歳にして適切に状況を判断し通告した清河八郎の明敏さには誰もが驚いたという。

1837年、清河八郎が7歳のとき、父・斎藤治兵衛から孝教の素読を受け、10歳からは鶴岡の伊達鴨蔵から学問を学び、清水郡治からは書を学んだ。
しかし、ワンパクだったようで、塾を追われてしまっている。

1843年からは、清川関所の役人・畑田安右衛門から論語・孟子・易経・詩経・文遷を学んだ。
1846年には、東北巡遊中だった後の天誅組総裁・藤本鉄石が斎藤家に宿泊し親交を深めている。
1847年、18歳で江戸に出ると古学派の東条一堂から学んだ。

また、1848年には叔父・斎藤弥兵衛一行に同行して、大阪・広島・岩国・四国・京を約4ヶ月間漫遊した。
更に1850年には3年間の許可を得て上洛すると梁川星厳に師事し、2カ月間、小倉・福岡・大宰府・佐賀・諫早・長崎・熊本も訪れている。

江戸に戻ると、その才能を認められ東条塾の塾頭に推挙されたが、昌平坂学問所を志し、当時の最高学府であった安積艮斎塾に移った。
その傍ら、北辰一刀流の開祖・千葉周作の玄武館で剣の腕も磨き免許皆伝を得ている。

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1854年3月には、推薦を受けて江戸幕府の昌平坂学問所に入学している。
しかし、昌平坂学問所に失望すると江戸神田三河町に自ら「清河塾」を開設。
この時、故郷清川を流れる最上川を大河の意味の『河』に変えて「清河」とし、清河八郎と改名した。
なお、当時、江戸の塾で学問と剣術を教えたのは清河塾だけであったと言う。

1855年3月から9月には。一旦、塾を閉鎖して故郷に戻ると母・亀代と共に清川村を出発。
善光寺、名古屋、伊勢、奈良、京都、近江、大坂、宮島、岩国、天橋立、鎌倉、江戸、日光などをめぐる母孝行の旅を行った。
この時の旅日記が紀行文「西遊草」であり、各地の志士との出会いなどが記載されている。

1856年頃、鶴岡・湯田川温泉の遊郭にいた17歳のお蓮(高代)を妻にしている。

1860年、清河八郎は「虎尾の会」を結成した1ヶ月後、大老・井伊直弼が水戸浪士に暗殺される「桜田門外の変」が起こった。
この事件を契機に山岡鉄舟、松岡万、薩摩藩士・伊牟田尚平、益満休之助ら虎尾の会15名は、倒幕・尊王攘夷の思想を強めた。

そして、同年1860年12月、虎尾の会の益満新八・伊牟田尚平・樋渡八兵衛らが、ハリスの通訳ヒュースケンを暗殺する事件が起こる。
裏では清河八郎が計画したのではとも考えら、徳川幕府は清河塾を監視。
1861年5月20日、幕府の罠にはまり、清河八郎は罵詈雑言を浴びせてきた者を斬り捨てた。
これに連座して妻・お蓮や虎尾の会同志、弟・熊三郎らも投獄されてしまい、清河八郎は逃亡。

なお、妻・お蓮は1862年に獄中で「はしか」を患い、病状が重くなると庄内藩邸に移されたが、亡くなったている。24歳。

清河八郎は仙台や京に潜伏しながら倒幕運動を続けたが寺田屋騒動などによってうまくいかず、1682年11月に江戸に戻ると、急務三策を山岡鉄舟らを通して幕府政事総裁・松平春嶽に上書。「攘夷の断行」「大赦の発令」「天下の英材の教育」を訴えた。
幕府はこの意見を採用し、獄中の志士・同志らは大赦で罪を許され、清河八郎自身も罪を問われなくなった。
そして、1863年、清河八郎は「身分を問わず、優秀な人材を集め、乱れた京都の治安を回復し、将軍家茂の上洛を警護するための浪士組を結成すべし」との意見を出すとこれも幕府に採用され。
さっそく「浪士組」が、松平忠敏のもと募集されると、近藤勇・芹沢鴨ら234名が集まった。
 
1863年2月23日、将軍・徳川家茂上洛に備えて、清河八郎を盟主とした浪士組は江戸から京都へ出発。
しかし、京都に到着したその夜に、浪士を壬生の新徳寺に集めると、本当の目的は「将軍警護でなく尊王攘夷の先鋒にある」と宣言した。

翌日、朝廷に建白書の受納を願い出ると受理されたが、不穏な動きを示した浪士組に対して、3月に幕府は江戸帰還を命じた。
これに藩士、攘夷に反対し将軍警護を行うため京に残るとした、近藤勇・土方歳三沖田総司・永倉新八・山南敬助・原田佐之助・藤堂平助・芹沢鴨・平間重助・新見錦・井上源三郎・野口健司・平山五郎らは京・壬生村に残留した。

浪士組約200人を江戸に戻すと、横浜の外国人居留地焼き討ちなどを計画した清河八郎だが、1863年4月13日夕刻、幕府の刺客、佐々木只三郎・窪田泉太郎など6名によって麻布一ノ橋(麻布十番商店街そば)で斬殺された。享年34。

出羽・上ノ山藩の知人を訪ねた帰りで、佐々木只三郎らは旧知の仲であったため、挨拶をする為、笠を脱ぐ仕草をしたところ、清河八郎も自らの笠の紐を解こうとしたところを、斬殺され、剣豪で知られた清河八郎も抵抗ができなったようだ。

※一部の参考先に漏れがございましてご指摘を賜りました。御礼を申し上げます。また、修正してお詫び申し上げます。

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