成瀬仁蔵 女子教育の先駆者「人として」「婦人として」「国民として」女性を教育




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 成瀬仁蔵(なるせじんぞう)は、吉敷毛利家の武士・成瀬小左衛門の長男として1858年8月2日に周防国吉敷郡吉敷村(山口県山口市吉敷大形)で生まれた。
 父は成瀬小左衛門は長州藩毛利家の一門である吉敷毛利家に仕えた下級武士。
 母は隣村の大歳村出身の藩士・秦家の娘である歌子。

 なお、吉敷毛利家は戦国時代の智将・小早川隆景を祖とする毛利家一門で、成瀬仁蔵が生まれた幕末には、服部哲次郎らが宣徳隊を結成し、久坂玄瑞らの禁門の変にも参加。
 長州藩の抗争では、高杉晋作奇兵隊と共に、俗論党の椋梨藤太らと戦っている。

 そんな激動の時代に生まれた成瀬仁蔵の成瀬家は、代々祐筆をつとめた漢学の知識も深い教育家の家であり、幼少の頃は藩校(郷校)・憲章館にて学んだが、7歳の時に母を亡くしている。

 明治維新となると、禄を失った父が開いた塾を手伝い、1874年(明治7年)には調剤師として医者宅に住み込みで働いたが、この年、父と弟も相次いで亡くなる不幸に見舞われている。
 その後は教員を目指して、山口県に設立された教員養成所の2期生となり、1876年(明治9年)に卒業すると18歳で小学校教員となった。
 
 そして、同郷の先輩・沢山保羅(さわやまぽうろ)に影響を受けて、山口を離れた。
 この沢山保羅はアメリカへ留学した経験からキリスト教の牧師になっており、明治11年(1878年)に成瀬仁蔵は大阪の浪花教会でキリスト教徒となった。

 澤山保羅に協力する形で、キリスト教の梅花女学校を設立すると主任教師を務めた。
 最初の生徒は15名だったと言う。


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 翌12年(1879年)、20歳のとき、浪花教会に属し女学校の生徒でもあった旧福井藩士の娘・服部満寿枝(マスエ)と結婚した。
 明治14年9月には「婦女子(おんな)の職務(つとめ)」を刊行。

 教職には熱心だったが、キリスト教伝道への意思が強く、明治15年(1882年)に卒業生を送ったあと教職を辞し、明治16年に奈良の大和郡山に転居すると牧師としての活動を開始した。

 明治17年には郡山教会として独立すると初代牧師となり、布教活動の傍ら、女子教育を研究した。

 明治19年、キリスト教がなかなか普及しなかった新潟での伝道を沢山保羅から依頼されるが一度断っている。
 しかし、病床にあった沢山保羅からの懇願により、7月、新潟に赴くと、10月、新潟第一基督教会を設立し初代牧師となった。

 そして、明治20年5月21日、29歳のとき、女子教育の必要性とキリスト教への理解を、知事・阿部欽次郎らから得ると新潟女学校を開校し、初代校長に就任した。

 更に、男子中等教育と伝道の目的で10月には「北越学館」の設立にも参画したが、教頭・内村鑑三と対立している。

 明治21年には牧師を辞して、新潟女学校校長として活動したが、この頃からアメリカ留学の夢への準備をはじめた。

 明治23年11月16日、32歳のとき、横浜港からアメリカへ渡航し、12月31日にサンフランシスコに到着、その後、ボストンへ入った。
 そして、アンドーバー神学校ではタッカー教授の影響を受け、新神学、社会的福音、社会改良運動、社会学などを学んだ。
 明治25年6月にはクラーク大学にて教育学や社会学、キリスト教などを学び、各種社会施設を見学した際に女子教育の現場も視察して明治27年1月に帰国した。

 そして、梅花女学校4代目校長にと懇願され3月に就任すると、本格的な女子高等教育機関(大学)の設立を計画。

 明治29年5月には、梅花女学校校長を退いて、女子大設立に向けて活動し、明治30年には大阪市東区清水谷東之町に建設を進めたが財政難となり、明治30年には病で弱っていた妻・満寿枝と離婚のかたちを取っている。その後、満寿枝は明治33年9月3日に没した。
なお、明治33年6月19日に、女子大設立に三井財閥から援助を受ける事となり、東京・目白の土地を寄贈され、早稲田大学の創立者・大隈重信、内閣総理大臣・伊藤博文、学習院院長・近衞篤麿、文部大臣・西園寺公望、渋沢栄一、岩崎弥之助などの財界人からも支援を受け、1901年(明治34年)4月20日、日本女子大学校を創設し、初代校長に就任した。

 この日本女子大設立に当たっては、明治の女傑として称される広岡浅子が共に政財界に呼びかけ、特に実家の三井家から土地を提供させるなど大きく貢献した。

 明治39年には、幼稚園から大学までの一貫教育体制を構築。

 明治45年(1912年)6月、渋沢栄一、森村市衛門左衛門、姉崎正治らと共に、様々な宗教が相互理解・協力を行う「帰一協会」を設立。翌年にかけて欧米を巡った。

 1913年(大正2年)6月、55歳のとき、文部省教育調査委員にも就任し、大正4年には勲瑞宝章を受けた。

 晩年にはキリスト教信仰を捨て、混交宗教に奉じたが、大正6年11月、腸チフスで入院するなど病にかかるようになる。

 大正7年(1918年)秋、内臓に違和感を感じ、大正8年1月に肝臓癌と診断され、1月29日に、日本女子大の豊明講堂で行った「告別講演」には1200名もの関係者が集まった。
 有限の肉体から無限の生命に入るとの死生観を述べ、後継者に後事を託す。
 この時、教育理念として信念徹底・自発創生・共同奉仕の三綱領を書き遺した。

 その後、皇后から見舞品を受けるなどしたが、急速に病状は悪化し、1919年3月4日午前8時20分、多くの学校関係者に見守られながら静かに息を引きとった。享年60歳。

 3月6日に告別式が執り行われ、雑司ヶ谷霊園に埋葬された。

 最後に残した言葉は「オオ万事好都合だ、総て満足だ」であったと言う。

 現在、目白キャンパスには「成瀬記念館」があり、男性でも貴重な成瀬仁蔵の史料などを見学できる。

 (参考) 幸太のコラムlivedoor、日本女子大学

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高田哲哉日本の歴史研究家

投稿者プロフィール

高田哲哉と申します。
20年以上、歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して史跡も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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コメント

    • BIG-BIRD
    • 2020年 2月 03日

    ①成瀬仁蔵は、江戸時代の生まれだが、幼名が書いてない。父親は農民の出身かと思ったが、下級武士である。1858年に生まれた人物を調べた。御木本幸吉は吉松、井上円了は岸丸、団琢磨は駒吉、斉藤実は富五郎、尾崎行雄は彦太郎と全て幼名がある。幼名がなかったのか、どうなのか分からなかった。また、いつ頃まで幼名が付けられたのかも分からなかった。1859年生まれの秋山好古・坪内逍遙・片岡直温はない(書いてない)。しかし、片山潜は、菅太郎とある。
    1859年が分岐点なのかなぁ。
    ②幼名は、ようみょうと読むと思っていたら、ようめいともおさななとも読むらしい。おさななは知らなかった。
    ③日本女子大学校を創設し、初代校長に就任とある。学長ではないのかと思い調べた。日本女子大学の大学案内を見てみると、歴代学長を紹介するページがあった。歴代学長の直ぐ下に初代校長と書いてある。第4代までは校長だが、第5代は校長・学長と書いてある。うーん、よく分からない。


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