島津久光(島津忠教)とは 薩摩藩の実権を握り維新へと功績を残す


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島津久光(しまづ-ひさみつ、島津忠教)は、薩摩藩の第10代藩主・島津斉興の5男として、1817年10月24日に鹿児島で生まれた。
母は側室のお由羅の方(江戸の街娘)。
このお由羅は、1824年に正室・弥姫が無くなると、以後は「御国御前」と呼ばれて正室同様の待遇を受けたと言う。

1825年11月1日、鹿児島藩重富領主・島津忠公の娘・千百子を正室と婚約し、島津忠公の養子となり、1836年2月に婚礼を挙げた。

1839年11月に、重富家の家督を相続。

その後、藩主・島津斉興の後継者を巡る争いで、お由羅の方が島津久光を擁立しようとしたため、島津斉彬派の家臣・近藤隆左衛門、山田清安、高崎五郎右衛門らが島津久光とお由羅の方を暗殺しようとした「お由羅騒動」(高崎崩れ)となる。
その結果、老中・阿部正弘が、将軍・徳川家慶に働きかけて、島津斉興に隠居を命じさせ、1851年2月2日、薩摩藩主に島津斉彬が就任した。

1858年7月16日に島津斉彬が死去すると、遺言により島津久光(島津忠教)の子・島津忠義が薩摩藩主となる。

島津斉興も没すると、島津久光(島津忠教)が後見人となって島津本家に復帰し、小松帯刀西郷隆盛大久保利通らと藩政の実権を握った。
しかし、西郷隆盛とは反りが合わず遠島処分にするなど、のちのちまで遺恨を残しす。
島津久光は藩主でこそなかったが、京都や江戸でも公武合体派として活躍した。

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1862年、公武合体運動推進のため薩摩藩兵をひきいて上洛すると、寺田屋に集結した薩摩藩の過激派である有馬新七らを寺田屋事件で静粛。
その足で幕政改革を要求する勅使・大原重徳を警護して江戸に向かい、その帰りの大名行列の際、生麦村でイギリス人を殺傷する生麦事件が起こる。

1863年7月の薩英戦争を経て、中川宮・近衛忠煕や孝明天皇から上洛要請を受ける。
長州藩を今日から追い出す八月十八日の政変が成功した後、3回目の上京を果たした。
そして、島津久光が孝明天皇に建白すると、徳川慶喜、松平慶永、山内豊信、伊達宗城、松平容保、島津久光による参預会議が創設され、関白・鷹司輔煕を罷免させるなどした。
しかし、島津久光と徳川慶喜が激しく対立した為、参預会議体制は崩壊。

その後、約3年、島津久光は薩摩に籠り、大久保利通や西郷隆盛が国事に奔走する。
下記は、鹿児島の城山の麓にある照國神社境内の島津久光公之像。

1867年、松平春嶽山内容堂・伊達宗城と四侯会議に加わる事となり、上洛して将軍・徳川慶喜と協議したが、ここでも妥協点は見いだせず、島津久光ら薩摩藩は「倒幕」へと傾く。
病気がちだった島津久光は鹿児島に帰って、あとの事を西郷らに任せると、1867年10月14日に孝明天皇から討幕の密勅が下され、徳川慶喜が大政奉還した。
そして、朝廷からは再び上洛するように要請を受けるも、病のため応じず、代わりに薩摩藩主・島津茂久が3000を率いて上洛し、王政復古・戊辰戦争となる。

明治維新になると、大久保利通ら新政府の急進的なやり方に反対した。
どうも、武家の棟梁である幕府を失くすことに反対だったようで、島津家が幕府を開くべきだとも考えていたようだが、最後の最後で軍を率いなかったこともあり、その声を政府が検討する事はなかった。
やがて西郷隆盛も薩摩に戻ると、岩倉具視や大久保利通らの説得を受けるも、島津久光は東京には行っていない。
明治4年に廃藩置県となると、抗議の意を込めて、自宅の庭で一晩中、花火を打ち上げたと言う。

しかし、新政府も倒幕に至る経緯での功労者を全く無視はできない。
明治6年(1873年)3月、有村俊斎の説得もあり、ようやく東京に赴き内閣顧問となり、左大臣に就任した。
保守的な意見である島津久光の考えは、どうしても相違が生じ、明治8年に辞職。
 
以後は、鹿児島で隠居生活を送ったが、廃刀令が発令されても、生涯、髷を切らず、帯刀・和装をやめなかったと言う。
明治政府は島津久光の処遇に苦慮し、叙位・叙勲や授爵においては最高級で遇している。

明治20年(1887年)12月6日死去。享年71歳。
鹿児島にて国葬となった。


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下記は島津家墓所(福昌寺跡)にある島津久光の墓。
とても立派である。

島津家墓所や島津久光公之像がある場所は、オリジナルGoogleマップにて、ピンポイントで印させて頂いている。

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