中山尚之助 西郷の奄美大島からの帰還に尽力するも


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幕末の1833年生まれである中山尚之助(中山中左衛門)は、島津久光の側近として仕えた薩摩藩士で、小松帯刀大久保一蔵大久保利通)、堀次郎と並び「久光四天王」とされます。

島津斉興が死去すると、国父となった島津久光は、亡き兄・島津斉彬の腹心であった島津下総(しまづ-しもふさ)を主席家老としました。
しかし、意外にも島津下総は、島津久光の上京計画に反対したため、人事を一新します。

主席家老には喜入摂津(きいれ-せっつ)、そして御側役(おそばやく)に小松帯刀(こまつ-たてわき)。
御小納戸役(おこなんどやく)には、中山尚之介、堀次郎(伊地治貞馨)、大久保一蔵を抜擢したのです。



下級藩士中心の勤王派であった誠忠組が島津久光の言うことを聞くようになったのは、中山尚之助の尽力が大きかったともされます。
中山尚之助のこの頃の実力は、小松帯刀よりも権限があったともされ、おなじく小納戸役となった大久保利通の願いを受けて、奄美大島にいた西郷隆盛復帰に向けて島津久光を説得しています。
大久保利通は島津久光に嘆願しましたが、良い返事をもらえなかったため、中山尚之助の力を借りたとされています。

しかし、鹿児島に戻った西郷隆盛は、島津久光の策に対して、亡き島津斉彬であればできるが島津久光にはできないと断定し異論を唱えて毛嫌いしたため、中山と西郷とは対立しました。
西郷隆盛は、島津久光が無官であったことと、江戸で成長しておらず人脈にも劣ると考えたようで「地ゴロ」(田舎者)と表現しています。

のち、島津久光の命令違反を問われて、西郷隆盛が沖永良部島に流刑となった際には、中山尚之助が島津久光に讒言(ざんげん)したからだと噂が広まります。
以後も、中山尚之助は忠節に島津久光に従い、薩摩藩の経済政策などで功績を挙げますがが、日の目を見ることは無くなってきており、人物について史料も少ないです。

明治9年(1876年)、大久保利通が暗殺された際には、中山尚之助はその暗殺に関与していたとされ、懲役10年となり牢獄に入ります。
その2年後、明治11年、獄中にて死去しました。享年46。

島津久光 薩摩藩の実権を握り維新へと功績を残す
大久保利通(大久保正助、大久保一蔵)
堀次郎(伊地知貞馨) 大久保らと公武合体に奔走するも・・
西郷隆盛 【西郷吉之助】の波瀾な生涯が詳しく「まるっとわかる」詳細版
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