中岡慎太郎 近江屋事件で潰えたもう一人の夢

中岡慎太郎



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近江屋事件ーおうみやじけんー

新暦1867年12月10日(旧暦・慶応3年11月15日)京都河原町・近江屋(井口新助邸)にて尊王攘夷派であった坂本龍馬・山田藤吉そして中岡慎太郎の3名の志士が暗殺されるという歴史的な事件が起こった。
俗にこの暗殺事件のことを近江屋事件と呼ぶ。
実行犯やその真相については現代においてもはっきりとは解明されてはいないが、当時の幕府にとって討幕派であったこの3名は現在でいうところの指名手配犯のような立場にあり、有力説としては幕府が京都の治安維持を目的として結成した組織である京都見廻組によって実行されたという説があるが、諸説あるのも確かである。


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中岡慎太郎ーなかおかしんたろうー

新暦/1838/5/6.(旧暦・天保9年4月13日)-新暦/1867/12/12.(旧暦・慶応3年11月17日)
尊王攘夷・討幕派の志士と知られ、土佐藩脱藩した浪士でもある。
脱藩後は長州藩で従軍し、坂本龍馬らと薩長同盟成立にも奔走した。

後世の人々の一般的な認識としては、坂本龍馬とともに暗殺された人物として記憶している人が多いのではないだろうか。
近江屋事件というと、どうしても幕末の英雄である坂本龍馬の名前ばかりがクローズアップされてしまうということが否めない。
事実、薩長同盟の成立に代表されるように、後の討幕や明治維新に関わる功績は坂本龍馬一人の名前が大きく取り沙汰され、神格化されている傾向にある。
しかし、大事を成すには、必ずそれを支えた人物がいる。つまり中岡慎太郎も、坂本を支え彼らとともに近代日本の礎を築いた一人なのだ。

薩長同盟における中岡慎太郎の活躍

敵対していた薩摩の西郷吉之助(隆盛)と長州の桂小五郎木戸孝允)を和解させ、薩長の盟約を締結させたのは坂本龍馬の功績だというのが一般的多数の認識であろう。
あたかも坂本一人の活躍によるものだというイメージが多くの人にあるが、実は決してそのようなことはないのだ。
中岡の活躍がなければ西郷と桂の会談も、そして盟約の締結も実現しなかったといっても過言ではない。
もし、この薩長同盟がこの時点で実現していなければ維新の実現もどうなっていたか分からない。
少なくとも史実よりも遅れていたことは確かである。
まず、薩摩・長州の和解を計画していたのは中岡と土方楠座衛門ーひじかたくすざえもんーという人物だった。
土方楠座衛門とは五郷(尊王攘夷派の上級公家)の中心的人物であった、三条実美に同行していた政治家であり武士で本名は土方久元ある。
この二人がそれぞれ中岡は薩摩の西郷、土方は長州の桂を説得するために奔走していた。
そしてついに西郷と桂は下関にて会談の手筈が整う。
下関では桂と、この薩長の和解計画に途中加わっていた坂本が、西郷と中岡の到着を待っていた。
ところが、西郷は下関には来なかったのだ。
直前に政治的事情が発生したとのことで京都へ向かったという。
第一回西郷・桂会談は失敗に終わった。
しかし、それでも中岡と坂本はあきらめず、今度は京都へ向かい西郷を説得するのだった。
あまり薩長が協力することに前向きではなかった西郷を中岡は熱心に説得した。
もちろん、下関にて待ちぼうけを喰わされた桂のメンツも考えケアしなければならなかったであろう。
その後、第二回目の会談が実現したのは半年以上経った、新暦/1866/3/7(旧暦・慶応2年1月21日)のことで、坂本も説得に加わり薩長同盟が締結することとなる。
最終的な結論として、要所で手腕を見せたのが坂本で、そこに導いたのが中岡の活躍といえる。
スポーツで例えるならば、ゴール前まで繋いでパスを渡したのが中岡、シュートを決めたのが坂本ということだ。



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近江屋にて

世間的には、中岡は有名な坂本の暗殺の巻き添えになって殺されたという見方がされることも少なくない。
坂本龍馬という名が現代の人々にとってあまりにも巨大だからである。
では本当に中岡は幕末の英雄・坂本龍馬の巻き添えで殺されたのであろうか。
いや、幕末の江戸幕臣にとって恐れていたのは坂本だけではなく、むしろ中岡の暗殺計画であったという説もあるくらいだ。
そのくらい中岡の顔と名も知れ渡っていたといわれる。
時が経ち名前が独り歩きして大きくなりすぎることのない当時としては、薩長を結び付けた二人の手腕やさまざまな功績はリアルな情報として知られていたことだろう。
真相としては証明するすべはないが、京都見廻組にとっては、この二人を一度に亡き者にする好機を狙っていたとしても不思議はない。
近江屋に潜伏していた坂本龍馬。
そして中岡はこの頃も精力的に動いて、いつも近江屋にいたわけではない。
幕府側には近江屋が坂本たちの潜伏先となっていた情報が掴まれていたとすると、坂本だけを狙っていたのであれば史実にある11月15日でなくてもいいはずだ。
そこで考えられるのは、中岡がいたその瞬間を狙ったと考えるのが普通である。
坂本と違い、中岡はいつもはそこにいないのだから。

そして、近江屋に踏み込んだのは7人の京都見廻組。

最初に襲われたのは部屋を出てきていた山田藤吉であった。

その物音に坂本と中岡は気付く。

一説にはこの音に坂本は、山田がふざけてたてた音だと勘違いしたともいわれている。
そのため警戒を怠ってしまったのだと。そして山田を

叱る声を坂本は発してしまい、京都見廻組に潜伏している部屋を知らせてしまった。

坂本と中岡がいる部屋を京都見廻組は特定する。

襖をあけ二人のいる部屋に入ったのは小隊長の桂早之助であったといわれる。

そこで桂早之助と、坂本・中岡がどのような形で対面したかは想像するしかない。

それから、早之助は小太刀にて坂本の頭部を一閃する。

これが致命傷であった。

坂本後方の掛け軸にはこの時に飛び散った血が付着している。高さなどから考察すると、この時の坂本は座っていたと考えられる。

これを合図に、京都見廻組たちもなだれ込み、中岡に斬りかかった。



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目的を達成し去っていく京都見廻組たちを、中岡は薄れゆく意識の中で見ていた。
失った意識を呼び戻したのは坂本だった。
坂本は「慎太、わしゃ脳みそやられたきぃ、もういかん」そして死を悟っていたが中岡のために必死に助けを求めるも、間もなく倒れる。
中岡と山田も近江屋の井口新助に助けられるが、山田は翌日の夕方、中岡も二日後には息を引き取った。

それから24日後の慶応3年12月9日、王政復古の大号令が発せられるとともに、彼らが夢見た日本の未来が幕を開けた。

(寄稿)探偵N

中岡慎太郎とは 土佐藩から脱藩浪人となり近江屋事件で龍馬と・・
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コメント

    • BIG-BIRD
    • 2020年 1月 26日

    興味深く読みました。
    ①佐々木只三郎や今井信郎の名前は知っていましたが、桂早之助は残念ながら知りませんでした。この第三の男が、実行犯の可能性は大ですね。血痕が残る掛け軸と刀に付着しているかもしれない血痕を照合すればわかるのではないかと思いました。しかし、掛け軸の血痕は、中岡慎太郎の血痕という説もあるそうで無理かもしれないですね。
    ②龍馬の最期の言葉は、「石川、刀はないか、石川、刀はないか」(有馬新七も同じ言葉を繰り返していますね)だと思っていました。その後、気がついて「慎太、僕は脳をやられたからもうだめだ」と言ったようですね。これは、中岡の供述らしいので、信憑性は高いと思います。

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