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山内容堂(やまうちようどう)は、土佐藩連枝の山内南家当主・山内豊著(土佐藩12代藩主・山内豊資の弟)の長男として、1827年10月9日に生まれた。
母は側室の瀬代(平石氏の娘)。
山内南家は分家で1500石と、序列では一番下であり、高知城下で生まれ育ち、1846年に連枝南屋敷の家督を継いだ。
山内家と言えば、豊臣秀吉の家臣として活躍した山内一豊を祖とする土佐藩だ。
幕末期となった1848年土佐藩13代藩主・山内豊熈が34歳の若さで死去すると、その弟で14代藩主となった山内豊惇25歳も藩主となって僅か12日で急死し、山内家は断絶の危機に直面する。
亡くなった山内豊惇には実弟(後の16代藩主・山内豊範)がいたが、まだ3歳であったため、分家の山内容堂(22歳)に15代藩主の話が転がり込んできた。
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山内豊熈の妻・智鏡院(候姫)の実家である薩摩藩主・島津斉興などが老中首座・阿部正弘に働きかけると、山内豊惇の死は隠されて、病気のため隠居したという事にし、1848年12月27日、山内容堂が幼い山内豊範を養子に迎え土佐藩主に就任した。
1850年、山内容堂は三条正姫(公家三条実万の養女)を正室としている。
智鏡院は山内容堂と共に土佐藩政に大きく参与したが、やがて、島津家が倒幕派、山内家が佐幕派となった際には、島津家と山内家を上手く取り持つなど、その存在も大きかった。
なお山内容堂の容堂は隠居後の号であり、本名は山内豊信(やまうちとよしげ)と言うが、このページで一般的に知られている山内容堂に統一してご紹介している。
藩主となった山内容堂は、門閥・旧臣による藩政を嫌って大胆な藩政改革を実施し、革新派「新おこぜ組」の吉田東洋を登用。
ペリー提督の黒船来航となった1853年に、吉田東洋を仕置役(参政職)に任じると、家老らを押しのけて西洋軍備採用・海防強化・財政改革・藩士の長崎遊学・身分制度改革・文武官設立などを断行した。
しかし、参勤交代で江戸に出た1854年6月、吉田東洋は山内家姻戚の旗本・松下嘉兵衛とトラブルとなり失脚し謹慎となるも、1857年には再び吉田東洋を起用すると、後藤象二郎、福岡孝弟ら有能な若手も起用。また、幕府からの命で参勤交代終了後も、そのまま江戸に滞在し、幕政に関与していくこととなる。
一橋派として公武合体を推進
徳川幕府13代将軍・徳川家定の継嗣問題では、山内容堂は一橋派として徳川慶喜を、水戸藩の徳川斉昭・徳川慶篤、越前・松平春嶽、尾張・徳川慶勝、薩摩・島津斉彬、宇和島・伊達宗城らと共に幕政にも関与し、老中・阿部正弘に幕政改革を訴えた。
しかし、阿部正弘が死去すると、南紀派の大老・井伊直弼が幕府の実権を握ると安政の大獄で反対派を排除し、第14代将軍は徳川家茂に決定した為、山内容堂は憤慨。
1859年2月に、隠居願いを徳川幕府に提出すると、10月に幕府から謹慎処分を受け、江戸・鮫洲の別邸にて隠居し、水戸藩の藤田東湖の薦めで「容堂」と号した。
土佐藩主には成長した前藩主・山内豊惇の弟・山内豊範が16代藩主に就任したが、参勤で江戸に出向いたため、土佐藩政は吉田東洋が引き続き担当。
この頃の山内容堂は藩祖・山内一豊が、関ヶ原の戦いにて土佐一国を徳川家康から賜ったお蔭で、今の土佐藩があるとして、幕府寄りの公武合体派であり、藩内の勤皇志士を弾圧したが、その一方で朝廷も重んじたため、幕末の政局には混乱をもたらしている。
1860年、桜田門外の変で大老・井伊直弼が暗殺されると、尊王攘夷活動が活発化し、土佐藩でも武市半平太(武市瑞山)の土佐勤王党が台頭。
藩政改革を行っていた公武合体派の吉田東洋と対立したため、1862年4月、武市半平太らは吉田東洋を暗殺し、土佐藩の藩政を掌握するに至った。
吉田東洋が暗殺された直後の1862年4月に、山内容堂は謹慎を完全に解かれ、のち京に上洛し朝廷への工作を行う。
また、1862年12月には藩主・山内豊範が、毛利喜久姫(毛利敬親の養女)を正室に迎えた。
しかし、山内容堂が土佐に帰国したあと、1863年8月に八月十八日の政変で京における尊王攘夷派である長州藩が追われ、佐幕派が盛り返えす。
藩主は山内豊範のままであったが、山内容堂は土佐にて隠居の身ながら事実上、土佐藩の藩政を指揮し、後藤象二郎を中心に公武合体を推進して、土佐勤王党の弾圧を開始した。
山内容堂は朝廷に招かれて一時、朝政参与するも1864年に土佐に帰国。
その後は土佐勤王党への弾圧を強め、武市半兵太も捕えると1865年に処刑し、土佐勤王党は壊滅した。
脱藩浪人・坂本龍馬の仲介で、桂小五郎と西郷隆盛が合意し薩長同盟が成立すると、世の中は討幕へと進む。
1867年5月には、薩摩藩主導の四侯会議に名を連ねたが、幕府権力が縮小することに反対。
しかし、薩摩藩家老の小松帯刀邸にて、中岡慎太郎の仲介により土佐藩・乾退助、谷干城と、薩摩藩・西郷隆盛、吉井友実らが武力倒幕「薩土密約」を結ぶと、報告を受けた山内容堂は、アルミニー銃300挺の購入を許可するなど協力し、土佐に帰国した。
その後、小松帯刀邸にて、大久保利通、西郷隆盛と土佐藩・後藤象二郎、福岡孝弟、寺村左膳、真辺栄三郎らにより、武力討幕ではなく大政奉還による王政復古を目標にした「薩土盟約」を締結したが、結局、武力討伐を重視することになり、幕府寄りの山内容堂も時代の流れには逆らえなくなった。
そんな中、坂本龍馬の「船中八策」を後藤象二郎が自分の案だとして山内容堂に進言すると、これは妙案だと採用して、老中・板倉勝静らを通して第15代将軍・徳川慶喜に建白。
これがもとで、徳川慶喜は1867年10月14日に「大政奉還」を行い、一時的に武力倒幕の流れを封じる事に成功した。
しかしながら、あくまでも武力討伐を掲げた薩摩藩は岩倉具視らと王政復古の大号令を発し、山内容堂が議定に、後藤象二郎・福岡藤次・神山左多衛が参与に任ぜられたが、鳥羽伏見の戦いなる。
上京していた土佐藩兵100名には「戦いに参加するな」と厳命していたが、薩土密約に基づいて自発的に官軍側に就いて戦闘に参加するなど、もはや統制も取れなくなり、迅衝隊を率いて上洛した板垣退助が東山道へ出発する際に「寒いから自愛するように」と言葉も与えている。
明治維新後は内国事務総裁に就任したが、身分制度を重んじていたこともあり、かつて家臣や領民であったような身分の者と仕事をすることを嫌い、明治2年(1869年)に辞職。
しかし木戸孝允だけとは仲が良く、自邸に招いては明治政府の将来などを語り合ったと伝わる。
晩年は、東京箱崎の元田安徳川家別邸を購入して居住した。
別邸には妾が十数人いたとされ、酒と女と豪遊したと言う。
幕末に出席した朝廷での会議にも深酒して遅参し、まともに回答できないなど酒癖の悪さは有名で、明治5年(1872年)6月21日、脳溢血にて死去した。
最後の頃には、武市半兵太を死罪としたため、薩長に対抗できる人物を欠き、新政府での実権を得られなかったと悔やんでいたとも言う。
水戸藩も同様に、尊王攘夷の先駆けだったにも拘わらず、天狗党の乱の際、幕府に従い徹底的に志士を処罰したため、同様に新政府からははじかれているのと同様であった。
以上、山内容堂に関して記述してみましたが、個人的にはかなり「癖」がある人物に思え、何を目指し、何を行ったのか、良くわからなかったため、その辺りをできる限り明確になるよう、わかりやすくと心掛けて記載してみました。
とにかく毎日、昼間から酒を飲んているような殿様であったようでして、酒に酔った勢いで物事を言ったりすることも多々あったようです。
そのため、もし、酒におぼれていなければ、もう少し更に活躍することができたのかな?と個人的には印象に残りました。
ただ、私も土佐に生まれていたら、おいしい日本酒が大好きになったかも知れませんね?(^_^;)
山内容堂公邸跡
高知城から南の鏡川沿いに、南屋敷とも呼ばれた山内容堂公邸跡があります。
山内容堂の下屋敷(散田邸)があったようで、山内容堂公邸跡は鷹匠公園として整備されていて、隣には現在、山内神社があります。
現在、山内神社の境内には、山内容堂の像もあります。
山内容堂は追手筋の追手邸で生まれましたが、6歳から22歳で藩主になるまでは、南邸で過ごしました。
脇にあるホテル三翠園が、1867年2月に西郷隆盛と山内容堂が会見した散田邸跡で、国の重要文化財にも指定されている、旧山内家下屋敷長屋もあります。
下記は、山内南屋敷跡の門です。
山内南屋敷跡の一部は、立体の有料駐車場となっています。
この山内神社や山内南屋敷跡の場所ですが、オリジナルGoogleマップにて駐車場などの場所も示させて頂いておりますので、よければ、ご活用願います。
・島津斉彬とは~西郷隆盛・大久保利通、そして島津久光と薩摩藩での関係をわかりやすく
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コメント
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