後藤象二郎~有能な知恵者であった土佐藩士


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幕末の土佐藩士で、明治の政治家である後藤象二郎(後藤象次郎、ごとうしょうじろう)について、年表式にて紹介していく。

父は土佐藩士・馬廻格の後藤正晴(後藤助右衛門正晴)。後藤象二郎は長男として1838年3月19日に誕生した。母は大塚氏。幼名は保弥太(やすやた)、のちに良輔(りょうすけ)、そして象二郎に改名。
後藤家は高知城下片町(与力町)にあり、150石の家禄で土佐藩では上士であった。(320石とも)

下記は高知城下にある後藤象二郎誕生地の石碑。

後藤家は一説によると、後藤家の祖先は後藤基次(後藤又兵衛)であると言う。後藤基次(後藤又兵衛)は、大坂の陣で豊臣勢に加わり、徳川勢を苦しめた武将である。その後藤基次(後藤又兵衛)の遺児が播州侍になり、その後、土佐に入った山内一豊に250石で取り立てられたとも伝わる。

後藤象二郎の生家近くには板垣退助や片岡健吉の屋敷があり、幼少の頃からの友人であったようだ。
後藤象二郎が11才の時に父・後藤正晴を亡くす。その後は叔母の琴子が吉田東洋の妻という縁があり、吉田東洋の元で生活したようだ。その後、吉田東洋が開いた少林塾(鶴田塾)にて学ぶ。竹馬の友であった板垣退助や、岩崎弥太郎らとも一緒に学んだと言う。
また、ジョン万次郎が土佐に戻った際に、吉田東洋邸に招かれたジョン万次郎から世界地図を譲り受け、海外の知識も得たと言われている。
叔父の吉田東洋が1857年に参政に復帰すると、後藤象二郎は1858年、吉田東洋の推挙により22歳の若さで幡多郡の郡奉行に就任。このように吉田東洋は、門閥政治打破・流通機構の統制強化・洋式兵器の採用などの藩政改革を進めるため、岩崎弥太郎など有能な人物を取り立てた。

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1860年9月に幕府から給付された大坂の敷地に、土佐藩の大規模な屋敷を建設することが決まり、後藤象二郎が普請奉行に就任している。土佐から人夫・大工・木材を持ち込み完成させた。
その後、後藤象二郎は1861年には御近習目付に昇進。この年の秋に土佐藩の下士を中心に尊皇攘夷を唱えた土佐勤王党を武市半平太が立ち上げている。
開国・公武合体を唱えていた1862年4月8日に吉田東洋が土佐勤王党に暗殺されると、吉田東洋派は失脚し、後藤象二郎も藩の役目を辞して、江戸に行き、幕府の開成所にて蘭学や航海術を学び、大鳥圭介から英語も学んだ。開成所は東京大学の前身である。
土佐では前藩主・山内容堂が土佐藩の実権を握ると1863年9月より土佐勤王党は弾圧され始める。
後藤象二郎は土佐に戻り、1864年4月、岩崎弥太郎らと共に「開国策」の意見書を山内容堂に提出。すると1864年7月に大監察に抜擢されて藩政に復帰し、尊皇攘夷派の武市半平太などを切腹させるなど、1865年5月まで土佐勤王党を弾圧する。その後、参政に任命され産業・貿易などの経済政策を推し進めた。西洋風の科学教育振興のための総合的施設「開成館」を1866年2月に創立。後藤象二郎は開成館の総裁を務め、産物を藩の専売品として長崎や大坂で販売し、得た資金を使い、新技術の導入や人材育成をはかろうとした。
1866年にはジョン万次郎と共に上海まで出かけて、船を3隻購入するなど、武力面の増強も図るが、開成館はうまく行かず、1867年に岩崎弥太郎を土佐藩の商務組織・土佐商会の主任、兼・長崎留守居役に抜擢し、岩崎弥太郎はを開成館の長崎商会に配置した。
しかし、土佐藩の財政難や文明の遅れを心配した後藤象二郎は、同じ土佐藩士で亀山社中を作って貿易していた坂本龍馬に注目する。

1867年1月に溝渕広之丞の仲介により長崎の清風亭で後藤象二郎と坂本龍馬が始めて会談すると両者とも過去の因縁を忘れ、意気投合し、後藤象二郎は距離を置いていた坂本龍馬とも以後頻繁に会うようになった。
1867年4月には坂本龍馬の脱藩の罪を後藤象二郎が免じ、土佐藩に付属する外郭機関として坂本龍馬を海援隊の隊長に任命している。

1867年5月22日には土佐を訪れた英国公使パークスと書記官のサトウに、坂本龍馬・後藤象二郎は面会するなど外交面でも精力的に行動した。
そして、6月9日、土佐藩船「夕顔丸」で京に向けて乗船中、坂本龍馬より「船中八策」が後藤象二郎に示され、将軍・徳川慶喜の大政奉還を計画する。
後藤象二郎はさっそく京で、土佐藩の重臣を大政奉還へと説得すると、西郷隆盛大久保利通小松帯刀ら薩摩藩とも会い薩土盟約を取り付け、7月8日に後藤象二郎は土佐に入り山内容堂に大政奉還を提言した。
後藤象二郎は、自分からではなく、土佐藩の山内家を引き立てる形で、大政奉還を実現しようとしたのだ。

薩摩藩とは思惑のズレから薩土盟約は9月7日に解消されたが、京の大目付・永井玄蕃守邸で9月20日、新撰組の近藤勇に会うなど大政奉還の提出に向けて動き続けた。
土佐では兵制改革を進めていた板垣退助が大政奉還に反対したが、後藤象二郎は山内容堂の説得にも成功し、山内容堂とともに連署して、土佐藩は10月3日に大政奉還建白書を幕府に提出。
10月13日、薩摩の小松帯刀と後藤象二郎は将軍・徳川慶喜に謁見。これを受けて1867年10月14日に第15台将軍・徳川慶喜が大政奉還を行う。
264年間に渡って江戸幕府(徳川将軍家)が保持していた政権が朝廷に返上された。

その後、1867年12月、一緒に国事に奔走した坂本龍馬が京都・近江屋で暗殺されるなど土佐は痛手を受ける。
後藤象二郎は、これらの功によって馬廻役の知行150石から中老に昇進し550石加増され700石。また執政に登用され役料800石が追加されて合計1500石になった。
また、1868年にはパークス襲撃事件を鎮圧した業績が認められ、中井弘と共に英国ビクトリア女王から名誉の宝剣を贈られている。

さらに、維新の功により1869年には明治新政府より賞典禄1000石を賜った。
同じく1000石を賜った者には板垣退助、小松帯刀、伊地知正治らがいる。1000石と言うと現在の年収に換算して約7500万円と推測。

大政奉還と言う大きな役割を果たした土佐藩であったが、土佐藩の独走を快く思わない薩長は、1867年12月に王政復古の大号令を発する。
土佐藩からは神山郡廉、後藤象二郎、福岡孝悌の3名が新政府にて参与の職に付いたが、薩摩藩と長州藩だけで14名も選出されるなど、新政府は薩長が中心となっており、主導権を握られていた。
そして、ついに1868年1月、鳥羽伏見の戦いとなり、新政府軍と幕府軍が衝突する。
土佐藩としては山内容堂が約100名の土佐藩士を京に向かわせていたが、土佐藩兵は新政府軍に加わるなと厳命。
しかし、土佐藩軍の最高指揮官・板垣退助は自身の判断で新政府軍に加わり戦闘に参加した。



1868年7月12日~1870年2月4日の間、後藤象二郎は大阪府知事職につく。
1871年7月14日、廃藩置県により、武士は失業する。
明治新政府で、後藤象二郎は1873年4月19日「参議」の要職に就くが、征韓論争に敗れ、板垣退助・西郷隆盛らと共に10月24日に辞表を提出。

翌年1874年1月には板垣退助・江藤新平・副島種臣らと共に愛国公党を結成し、民選議院設立建白書を政府に提出した。
1874年11月、長崎県の高島炭鉱を明治政府から約55万円で払い下げを許可を受けて、蓬莱社を設立。しかし、放漫経営の為2年後に経営破綻。福沢諭吉からの要請で、三菱を設立していた岩崎弥太郎に売却している。
1875年、後藤象二郎は元老院議員に任命される。

1881年、板垣退助を中心として自由党を結成し、のちに大同団結運動を推進するが、政府から買収され政府への協力に転じている。
井上馨らとの密議により三井家から旅費を引き出し、1882年11月、板垣退助と後藤象二郎はヨーロッパに出発。1883年1月、後藤象二郎がシャンゼリゼ近くの店でルイ・ヴィトンの鞄を購入した記録が残されている。
1883年、福沢諭吉からの要請で、日本の明治維新を模範とし清朝からの独立を目指した金玉均を援護するため、フランス公使に艦隊を借りて、自由党の荘士で民兵を組織し、朝鮮半島に送り込む計画を立てたが挫折する。
1887年5月、伯爵を授けられる。その後、明治政府の条約改正に反対する運動が台頭するや、大同団結運動を唱導したが、運動を放棄して、1889年3月22日、黒田内閣にて逓信大臣就任。

1891年1月の第1回帝国議会では、予算案をめぐって政府と民党が激突した際に、民党の切り崩しを画策し成功している。
1892年8月8日、第2次伊藤内閣にて農商務大臣就任。第5回帝国議会において、経済界との癒着などの攻撃を受け、1894年1月22日農商務大臣を辞任し政治の表舞台から退く。このように進歩党結成にも尽力するなど党派を超えた政治家として活躍した。
その後は病を患うなどして1897年(明治30年)8月4日没。60歳。正二位勲一等、旭日大綬章。

なお、後藤象二郎の長女・後藤早苗は、岩崎弥太郎の弟である岩崎弥之助の妻となっており、後藤家と岩崎家は縁戚にもなっていた。



後藤象二郎の人物について

坂本龍馬から聞いた船中八策(大政奉還)の妙案を後藤象二郎はあたかも自分が発案したように山内容堂に進言して出世できたと一般的に言われたり、開国派から尊皇攘夷派に転進したり、明治政府から買収されて政治信念を曲げたりなど、後藤象二郎の一貫性のない政策が、本人のイメージを悪くしているようだ。
その為、坂本龍馬を暗殺した黒幕は、後藤象二郎と言う説もあるくらいだ。

しかし、大政奉還を山内容堂に進言した件は、後藤象二郎からすれば、是非とも成し遂げたい一大政策だったのだろう。
山内容堂に生涯拝謁することも適わなかった、下士の坂本龍馬の案だと明示すれば、山内容堂は最初からバカな案だと相手にしなかったかも知れない。上士で既に山内容堂からもその実績を認められている後藤象二郎からの提言だった為、山内容堂も受け入れやすかったのだろう。
また、船中八策じたい、坂本龍馬が1人で考えたとは到底考えられず、グラバー商会のトーマス・グラバーの話・意見を坂本龍馬が取り入れて策を練ったと考えるのが妥当である。
このような経緯から、坂本龍馬が考えた船中八策を後藤象二郎が奪ったように捉えれるのは、いささか問題である。
もっとも、坂本龍馬の考えを後藤象二郎が自分の手柄にしても、そんな事を咎めるような心が狭い坂本龍馬ではない。

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