堀次郎(伊地知貞馨) 大久保らと公武合体に奔走するも・・


スポンサーリンク
スポンサーリンク

伊地知貞馨(いじち-さだか)は、薩摩藩士で文政9年(1826年)9月27日に生まれました。

初名は堀貞通、幼名は堀徳之助、他に、堀又十郎、堀仲左衛門、堀次郎、堀小太郎、伊地知壮之丞と色々と名前が変わっています。

安政の大獄により、入水自殺した月照と、奄美大島に逃れた西郷吉之助(西郷隆盛)を盟主的存在として、大久保正助(大久保利通)、岩下方平と堀仲左衛門(堀次郎)らは「誠忠組」(せいちゅうぐみ)を旗揚げします。
誠忠組のメンバーは、水戸藩と協力して大老・井伊直弼を暗殺し、京都への出兵しようと行動を開始しました。

これに対して、島津斉彬島津斉興の死後、自分の子である薩摩藩12代藩主・島津忠義の後見を努め、藩の実権を握った島津久光は、暴走しようとしていた精忠組を処罰するのではなく、取り込むことを考えます。

スポンサーリンク


そして、大久保正助、税所喜三左衛門(税所篤)、吉井仁左衛門(吉井友実)、海江田信義、岩下方平らを側近として抜擢し、堀仲左衛門は1861年10月7日に御小納戸役となりました。
大久保利通も堀より遅れて、10月23日に御小納戸役になっています。
そして、大久保は島津久光より一蔵の名を与えられて「大久保一蔵」と称し、堀仲左衛門は「次郎」そして「小太郎」と島津久光より名を賜りました。
こうして、堀次郎(堀小太郎)は、大久保一蔵(大久保利通)と並ぶ、島津久光の側近として、藩政に参与し、京や江戸に出向いては、諸藩の志士と交渉などを担当しました。
越前藩邸を訪れては、松平春嶽に助力をお願いしています。

特に、江戸にて堀次郎(堀小太郎)は、薩摩藩出兵準備において江戸にて藩主が人質となるのを防ぐ時間稼ぎをするため、幕府に藩主参勤の延期を届け出ます。
しかし、認められず、1861年12月、藩命を受けて芝の薩摩藩邸に放火して、江戸幕府に参勤交代は不可能になったと申し開きしました。

1862年、西郷隆盛を奄美大島から戻し、精忠組の主張する「突出」に代わって公武合体を促進するため、島津久光は軍勢を率いて京に上りますが、命令違反の西郷隆盛は沖永良部島に遠島処分となります。
また、有馬新七ら過激派は島津久光の方針に従わず、真木保臣清河八郎尊王攘夷の志士らと連携したため、精忠組の同士討ちとなる寺田屋騒動となりました。

さらに、薩摩藩邸の火災も自作自演であることが幕府に露見し、主犯格とされた堀次郎(堀小太郎)は表立った行動ができなくなり、藩命にて伊地知壮之丞と改名します。
そして、薩摩藩船・天祐丸にて江戸から鹿児島に戻ると、薩摩藩の政治活動の第一線から退きました。



その後は、貨幣局に出仕したのち琉球在番を務めるなどし、修史の編纂に取り組みつつ、薩摩とイギリス・オランダとの貿易交渉も行っています。

明治維新となると明治1年(1868年)には鹿児島藩参政、明治4年外務省出仕となり琉球藩在勤となりましたが、盟友だった内務卿・大久保利通より、琉球から賄賂を受取ったと咎められ免職となっています。

明治20年4月15日死去。62歳。

島津忠義(島津茂久) 時代に埋もれていた最後の薩摩藩主
有馬新七と寺田屋事件とは~強硬に尊王攘夷を実現しようと
大久保利通(大久保正助、大久保一蔵)~詳細版~日本史上最高の政治家
中山尚之助 西郷の奄美大島からの帰還に尽力するも
有村俊斎の幕末~大きな出世にはならなかった海江田信義の生涯とは
西郷隆盛 【西郷吉之助】の波瀾な生涯が詳しく「まるっとわかる」詳細版
島津久光(島津忠教)とは 薩摩藩の実権を握り維新へと功績を残す

 

この記事が気に入ったら
いいね!しよう

最新情報をお届けします

Twitter でフォローしよう!

スポンサーリンク


★あなたさまの思いも下記コメントにお寄せ頂けますと幸いです

Loading Facebook Comments ...

関連記事



メールでお知らせ

メールアドレスを記入して購読すれば、新規記事追加をメールで受信できます。

ページ上部へ戻る