有村俊斎の解説 大きな出世にはならなかった海江田信義の生涯とは

有村俊斎(海江田信義)



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有村俊斎(ありむら-しゅんさい)は、のちに海江田信義(かいえだ-のぶよし)と改名しますが、幕末の薩摩藩で西郷隆盛らの精忠組が輩出した政治家となりますが、どんな人物だったのか追ってみました。

有村俊斎が生まれたのは幕末の1832年2月11日で、父は薩摩藩士・有村兼善(有村仁左衛門兼善)となります。
母は連寿尼(森元高見の娘・れん)と考えられます。
幼名は太郎熊で通称は有村武次と言い、弟に有村雄助、有村次左衛門らがいるほか、姉の鉄子は東郷平八郎に嫁いでいます。


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有村俊斎は次男だったことからか11歳の時に藩主・島津斉興の茶頭をしていた人物に仕えて、茶坊主となると俊斎と称しました。

示現流剣術を東郷実明から学んだほか、薬丸兼義からは薬丸自顕流剣術を学び、大山綱良とも剣術を競ったともあります。

1849年、お由羅騒動にて父・有村兼善と有村俊斎は連座し、家禄を失いますが、1851年に島津斉彬が藩主になると許されています。

このとき有村俊斉は西郷吉之介(西郷隆盛)、大久保正助(大久保利通)、伊地知龍右衛門(伊地知正治)、税所喜三左衛門(税所篤)、吉井仁左衛門(吉井友実)長沼嘉兵衛らと「近思録」を輪読する会を結成しました。

近思録(きんしろく)と言うのは学問思想の精髄を選りすぐって編纂した朱子学の入門書で、伝習録とともに学業の最後の段階で学ぶものとされていました。
現在でも、知識者階層や経営者に広く読まれています。

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この集まりは、のち「精忠組」となり、有村俊斎も幕政改革や日本の近代化を考えるようになります。

嘉永5年(1852年)、有村俊斎は、樺山三円(樺山資之)と江戸藩邸にて勤務しており、このとき、小石川の水戸藩邸にて、藤田東湖、戸田忠太夫に師事して尊王論を学びました。

1858年、大老・井伊直弼による「安政の大獄」となると、有村俊斎にも危険が迫ったことから、勤王僧・月照を西郷隆盛と共に京都から脱出して薩摩に帰国しました。
この頃、弟の有村雄助と有村次左衛門は薩摩藩を脱藩して、江戸に赴き、1860年3月3日、桜田門外の変となります。
有村次左衛門は井伊直弼の首を取り、持ち去ろうとしたところを彦根藩士・小河原秀之丞に斬り付けられ、自害しています。享年22。
有村雄助は、幕府から藩への罰則を恐れた薩摩藩に捕縛され、1860年2月24日、藩命にして大久保利通ら精忠組の立ち会いのもと、自刃させられました。享年26。

有村俊斎は、大久保利通らと関白九条尚忠や京都所司代・酒井忠義を暗殺する計画が、藩に知られて、島津久光より中止させられ、それ以降は藩政に従っていたため、連座などは免れていますが「愚兄賢弟」と嘲笑されたともされます。

1861年12月、安政の大獄で捕縛され獄死していた薩摩藩士・日下部伊三治海(江田訥斎連の子)の次女・まつと結婚。
この時、婿養子となって海江田氏を継ぎ、海江田武次信義と改名しました。
ただし、以後も有村俊斎の名も併用しています。

文久2年(1862年)、島津久光に従って上洛しますが、その道中にて西郷隆盛の京都での動静を知ると、島津久光に伝えたことから、心ならずも西郷隆盛を失脚させてしまいます。
寺田屋事件では、藩命にて奈良原繁と共に有馬新七ら薩摩藩士を説得しますが失敗。

1862年8月21日の生麦事件では、島津久光の行列を遮って、斬られたイギリス人のチャールス・リチャードソンに、有村俊斎(海江田信義)が止めを刺したとも言われています。

その後、戊辰戦争では西郷隆盛を支えて東海道先鋒総督参謀を務め、勝海舟らとの交渉役を果たし「江戸城無血開城」に尽力しますが、強硬派の長州藩・大村益次郎とは意見が合わず、常に対立し、出世街道から外れます。
そのため、明治2年、京都にて大村益次郎が暴徒の襲撃にて治療の甲斐もなく亡くなると、海江田信義が遺恨を晴らそうとしているなどの噂が現実になったとも騒がれました。

有村俊斎(海江田信義)は犯人処刑に異議を申し立てたこともあり、明治政府の取り調べを受け、謹慎処分となりますが、大久保利通の尽力にて明治3年8月には政府の官職に復帰し、奈良県知事となりました。
しかし、明治4年に解任されると、一時、薩摩に戻り、政府に不満を持つ島津久光との調停もしています。
これが評価され、海江田信義は、明治5年に左院四等議官として復帰し、明治6年には島津久光の上京を成功させました。



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その後、病となり鹿児島に戻ったため、明治10年の西南戦争での西郷隆盛の死、明治11年の大久保利通の暗殺と、悲しみを悼んだあと、明治14年(1881年)に元老院議官となっています。
明治20年、ヨーロッパのウィーンに遊学したのち、明治23年には貴族院議員、明治24年には枢密顧問官となり、明治28年、勲一等瑞宝章。
明治35年(1902年)、勲一等旭日大綬章のあと、明治39年(1906年)10月27日に75歳で死去しました。
贈正二位。

有村俊斎の末弟は有村國彦(有村国彦)で、そのご子孫に安倍内閣にて女性活躍担当大臣などを歴任した参議院議員・有村治子氏がいます。

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高田哲哉日本の歴史研究家

投稿者プロフィール

高田哲哉と申します。
20年以上、歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して史跡も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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