藤田東湖の解説 水戸学の改革派

藤田東湖



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藤田東湖(ふじた-とうこ)は、江戸時代末期の水戸藩士で、儒学者でもあり、幕末の1806年に生まれました。
父は、水戸城で古着屋を営む家に生まれた藤田幽谷(ふじた-ゆうこく) ですが、父も幼いころから優秀だったようです。
父は儒学を学ぶと彰考館から招へいされて、水戸藩の大日本史編纂にも携わりました。
1807年(文化4年)には、彰考館の総裁になって、150石と水戸藩士になっていますので、その頃に生まれたのが、藤田東湖と言う事になります。

水戸学藤田派を築いた父・藤田幽谷が死去すると、文政10年(1827年)、藤田東湖が家督を継ぎました。
進物番200石にも出世すると、藤田東湖も才覚を発揮し、父同様に彰考館編集を行い、24歳の若さで彰考館総裁代役などを務めました。
また、水戸にて対立していた立原派とも和解し、水戸学の大成者となります。



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文政12年(1829年)、水戸藩にて、継嗣問題が起こると、徳川斉昭を支持しました。
その後、江戸通事御用役、御用調役と重役を務め、天保11年(1840年)には、徳川斉昭の側用人(側近)として、水戸藩の藩政改革にも尽力しています。
このように、水戸藩の思想をリードし、改革派の中心人物となっていたのが、藤田東湖と言えます。
吉田松陰、・木戸孝允佐久間象山横井小楠吉田東洋橋本左内、梁川星巌、山内容堂松平春嶽らに影響を与えました。
武田耕雲斎の長男・武田彦衛門の妻は、藤田東湖の妹・幾子となります。

1844年、徳川斉昭が失脚し、隠居謹慎になると、藤田東湖も、江戸・小石川藩邸にて、謹慎しています。
1853年、アメリカ合衆国のマシュー・ペリー提督が浦賀に来航すると、幕府も対応に苦慮します。
そのため、徳川斉昭が海防参与として復帰すると、藤田東湖も600石にて海岸防禦御用掛となって、再び徳川斉昭を支えました。
1854年には側用人に戻り、徳川斉昭が、江戸幕府の参与になると、幕府の内政・外交にも携わりました。

しかし、1855年「安政の大地震」となります。
この時、藤田東湖は、江戸の自宅に戻った際に、地震となりました。
家族は建物から庭に脱出しましたが、火鉢を心配した母親・丹梅子(丹武衛門の娘)が、再び邸内に戻ったため、藤田東湖は、後を追ったと言います。
そして、梁(鴨居)が落下してくると、母を守り、何とか母親を脱出させましたが、自身は力尽き、下敷きとなって圧死したとされています。享年50。



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その後、1864年に、水戸では天狗党が挙兵します。
この天狗党を率いたのは、藤田東湖の4男である藤田小四郎でした。

2021年のNHK大河ドラマ「青天を衝け」では、藤田東湖を、俳優の渡辺いっけいさんが、演じられます。

徳川斉昭 徳川御三家である水戸藩の9代藩主で幕末に大きく関わる
幕末動乱の元凶は水戸学に有り
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高田哲哉日本の歴史研究家

投稿者プロフィール

高田哲哉と申します。
20年以上、歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して史跡も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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