武田耕雲斎の解説 天狗党を率いた水戸の改革派

武田耕雲斎



武田耕雲斎(たけだ-こううんさい) は、江戸時代後期の1803年、水戸藩士・跡部正続の子として生まれました。
正しい名前は、武田正生、幼名は彦九郎、別号は如雲で、伊賀守を称しました。
戦国時代には、祖先とされる跡部勝資がおり、山県昌景・土屋昌続・原昌胤らと共に武田信玄の重臣として活躍しています。

武田耕雲斎が、水戸での宗家で300石である跡部正房の養子になると、1817年に家督を継ぎます。
このとき、武田信玄の末裔を称し、藩主の許可を得て、跡部から武田と名乗るようになりました。



戸田忠太夫、藤田東湖らと、水戸藩第9代藩主・徳川斉昭の擁立にも貢献し、藩政改革派尊王攘夷派の重鎮となります。
水戸藩校・弘道館の造営に携わり、1840年には参政として、水戸藩の藩政も行いました。
しかし、弘化元年(1844年)に、徳川斉昭が江戸幕府から隠居謹慎処分となると、反発したため、武田耕雲斎も連座し、藤田東湖らと謹慎の身となりました。

嘉永2年(1849年)、徳川斉昭が復帰すると、再び藩政に参与しています。
安政3年(1856年)には、執政に昇進し、徳川斉昭の尊皇攘夷を支持しました。

1860年、徳川斉昭が死去すると、水戸藩は混乱し、武田耕雲斎も藩政から退かされています。

1864年、亡き藤田東湖の4男である藤田小四郎が、天狗党を率いて筑波山で挙兵します。
この時、武田耕雲斎は、藤田小四郎に挙兵をやめるように説得しましたが、逆に天狗党の総大将を打診されます。
武田耕雲斎は、拒んでいましたが、やがて折れて、800名の天狗党を率いました。

天狗党は、尊攘の志(こころざし)を朝廷に訴え、京都にいた徳川慶喜を、新たな水戸藩主にすることが目標です。
約40日かけて中山道を西に進み、各藩の追撃をかわしながら、敦賀の新保(しんぼ)に入りました。
ところが、4000の江戸幕府軍から包囲を受けると、徳川慶喜が率いているのを知り、降伏しています。
そして、来迎寺の境内にて、武田小四郎ら幹部23名と共に、武田耕雲斎は斬首されています。享年63。



なお、安政の大獄でも、江戸幕府が斬首したのは、橋本左内吉田松陰ら6名だけです。(獄死は他にもいますが・・。)
ところが、天狗党の討伐では、天狗党828名のうち、352名が処刑されました。
天狗党敗北の知らせが届いた水戸藩でも、保守派の諸生党らが、天狗党の家族らをことごとく処刑しています。
武田耕雲斎の妻、2人の子、3人の孫までも、斬り殺されたと言います。

武田耕雲斎らの首は、塩漬けされて水戸城に送られ、3日間、水戸城下を引き回されました。

天狗党員353名が埋葬された敦賀の塚は「武田耕雲斎等墓」として国の史跡に指定されています。

天狗党で遠島処分などになった者たちは、小浜藩に預けられて旧・佐柿城の屋敷(准藩士屋敷)に集められましたが、小浜藩が恨まれるのを嫌って厚遇したと伝わります。



更に、江戸幕府が無くなり、1868年、鳥羽伏見の戦いになると、天狗党の残党は長州藩の支援にて、朝廷から諸生党追討の勅命を受けます。
そして、水戸藩庁を掌握すると、諸生党士民や、その家族らを、処刑しました。

ちなみに、似たような名前で、新選組・五番隊組長の武田観柳斎(たけだ-かんりゅうさい)がいますが、こちらの武田さんは、甲州流軍学(長沼流)を学んだ、松江出身の人物です。

2021年のNHK大河ドラマ「青天を衝け」では、武田耕雲斎を、俳優の津田寛治さんが、演じられます。

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高田哲哉日本の歴史研究家

投稿者プロフィール

(株)TOLEDO、高田哲哉と申します。
20年以上、歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して史跡も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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