幕末動乱の元凶は水戸学に有り

水戸学

欧米列強の脅威を前に国内を二分し、同胞同士が争うことになってしまった幕末

徳川家康が天下統一を果たして以来、250年もの長い間、盤石であった徳川幕府を滅ぼしたのは、「尊皇攘夷(そんのうじょうい)」を掲げた下級武士達でした。

「尊皇攘夷」とは、天皇を尊び、天皇をトップとして外国人(夷敵(いてき)・外敵)を討ち払うという思想ですが、皮肉なことにこの思想を世に生み出したのは、本来幕府を支えるはずの御三家であった「水戸藩」だったのです。

歴史にもし(if)はありません。
しかし、もし水戸藩の生み出した「尊皇(そんのう)」という思想が広まらなければ、国内での動乱はもう少し穏やかだったのかもしれません。

この「尊王」を取り入れた「水戸学」は、水戸藩のみならず国内をも分断して行くことになり、ついには徳川幕府も倒してしまうことになるのです。



ここでは、水戸藩が尊王に至った経緯と、若者たちを過熱させる原因となった「水戸学」について紹介します。

諸悪の根源は水戸黄門

現在の茨城県、当時は常陸国(ひたちのくに)と呼ばれた場所に水戸藩はありました。

元は平安時代から続く豪族の佐竹氏がこの地を治めていましたが、関ケ原の戦いで傍観を決め込んだ為、徳川家康によって国替えさせられたのです。

そこで新しい藩主となったのが、家康の五男である「信吉(のぶよし)」です。

しかし、信吉は21歳という若さで亡くなり、その後は家康の十男であった「頼宣(よりのぶ)」、十一男であった「頼房(よりふさ)」を経て、第二代藩主となったのが「光圀(みつくに)」でした。

ちなみに光圀とは、「この印籠が目に入らぬか!」でお馴染みの水戸黄門様のことです。

時代劇では、悪代官を許さない正義の味方、あるいは「カッカッカッ」と快活に笑う好々爺のような存在となっていましたが、リアルな光圀の少年期は、チンピラか不良かと呼べるほどの「ワル」でした。

光圀は家康から見れば孫ですが、父である頼房は光圀を堕胎するつもりであったと言われています。

何故かと言えば、光圀の母であった久子(久昌院)は、頼房の正妻でも正式な側室でも無く、ただの「お手付き」だったからです。

お手付きとは言っても、久子は光圀の前にもう一人頼房の息子を産んでいるので、頼房はそれなりに久子を気に入っていたのでしょう。

その間に、頼房と正式な側室にも息子(頼房からみて次男)が誕生した為、本来であれば、久子の息子たちが跡目になることも、藩主として取り立てられることもなかったのです。

しかし、次男が夭逝し、ようやく久子の子に対面した頼房は、長男である頼重(よりしげ)よりも三男である光圀に才を見出し、跡目として光圀を選びました。



父頼房も若いころは傾奇者で、服装はだらしなく、振る舞いも粗雑だったと言われているので遺伝かもしれませんが、幼少期の不遇な環境や、兄より自分が選ばれてしまったという後ろめたさが影響してか、少年期の光圀は遊郭通いや、刀の試し斬りの為に辻斬りも行うほどの「ワル」だったのです。

光圀が不良化していたのは、13~17歳頃だと言われているので、どんな時代も思春期の男子というのは、つい横道に逸れてしまいがちなのかもしれません。

そんな光圀を改心させたのは、「史記(しき)」という大陸からやってきた歴史書でした。

史記は司馬遷(しばせん)という歴史家が、中国前漢時代(紀元前91年)に書き上げた歴史書のことですが、光圀はこの中にある「伯夷列伝(はくいれつでん)」に感銘を受けたと言われています。

「史記」や「伯夷列伝」について詳細に述べるとページが足りなくなってしまうので省略しますが、光圀は「伯夷列伝」に登場した三兄弟や、三男が王位継承することになるも、長男が快くそれを譲ったという逸話に自分達兄弟を重ね合わせ、そこから突如勉学に勤しむようになりました。

光圀は「史記」に出会った18歳の時から、人が変わったように学問に励み、30歳の頃から「大日本史」という日本の歴史書編纂を始めます。

当人にどのような意図があったのか今となっては不明ですが、家康の孫であり、御三家と呼ばれる家格なのにも係わらず、光圀が着手した国史は「古事記」や「日本書紀」と同じく「天皇」主体の史書だったのです。

鎌倉時代の源頼朝以降、武力を持って政権を天皇から奪い取った武士達ですが、確かに天皇の勅命が無ければ「征夷大将軍」という肩書は手に入れることが出来ません。

形式上、武士の成り立ちも天皇の家臣ではありました。

しかし鎌倉時代以降、天皇の権力は奪われ、武士達も都合よく利用する玉(ぎょく)としての天皇という認識はあっても、尊皇という概念はほとんどありません。

特に光圀が「大日本史」に着手し始めた時代は、すでに4代将軍家綱(いえつな)が将軍となっており、大坂夏の陣からすでに40年以上も過ぎていた為、徳川家が安定したと言っても良い時期です。

武士達にとっては将軍が国のトップであり、天皇はお飾りに過ぎないという風潮の中、光圀は感銘を受けた「史記」に倣い、天皇が王者であり、武力で世を治めた徳川は覇者であるとしました。

簡単に言えば、「天皇が一番で、その下に徳川将軍家がいる」という概念を「大日本史」に持ち込んだのです。

これがのちに倒幕まで繋がってしまうとは、この時の光圀には想像出来なかったのかもしれません。

極貧だった水戸藩

徳川家康には息子が11人いましたが、第二代将軍となった秀忠以外の息子達は、自刃に追い込まれた者や養子に出された者、または幼い頃に亡くなった者や、中には幽閉などされた者もおり、残された末弟の3人が本家を支える為の御三家となりました。

九男の義直(よしなお)は尾張徳川、十男の頼宣(よりのぶ)は水戸藩を経て紀州徳川に、そして十一男の頼房(よりふさ)が水戸徳川となったのです。

年の差順だったのか、尾張(現在の名古屋)は62万石、紀州(和歌山)は56万石という大藩でしたが、水戸はたったの28万石でした。

そのような状況の中で、第二代藩主となった徳川光圀が道楽で始めた「大日本史」の編纂は、気が付けば藩の事業と化していた為、水戸藩の予算は圧迫され続けていくのです。



また、光圀は石高の計算方法を規定のものから少し減らした上で検地をし、数字上のみで「35万石」と幕府に報告したおかげで、家格に合わせた経費が嵩み、水戸藩はどんどん貧しくなっていきました。

当然年貢も上がりますが、飢饉も続き、農民ばかりか武士達も知行(年収)を半分に減らされたり、時には全く知行が出ないという年もあって、水戸藩は御三家とは言っても極貧状態が幕末まで続いていくのです。

ちなみに「大日本史」が完成するのは、光圀死後から約200年以上の時を経て、明治に入ってからのことです。

幕府の足枷となった水戸斉昭

光圀がこの世を去ってから約120年後、幕末の世に第9代水戸藩主となったのは水戸斉昭(みとなりあき)です。

兄の代わりに水戸藩主となったことに負い目を感じていた光圀は、兄である頼重の子を養子にして自分の跡を継がせた為、水戸藩主は光圀以降、頼重の血脈によって続き、斉昭もまたその血筋を受け継いでいるのです。

斉昭が藩主になった頃には、すでに蝦夷地(えぞち:北海道)や長崎沖に、ロシアやイギリスの艦船が来航しており、太平洋に面した領地である水戸藩でも、捕鯨船の往来を目撃するようになっていました。

当時、斉昭は30歳と御三家の中で一番年上で、4歳年下の尾張藩主の慶家(よしいえ)も、初代藩主の藩訓の為に「勤皇家」だったこともあって、斉昭と気が合ったのでしょう。

一橋徳川家の藩主はのちに第14第将軍となる家茂(慶福:よしとみ)でしたが、当時まだ4歳という幼子だった為、必然的に斉昭が、御三家のリーダーとして幕府に意見を述べる立場となったのです。

名君やカリスマと呼ばれる斉昭ですが、実際には水戸藩の財政を立て直すことも出来ず、どっぷりと尊皇教育込みの水戸学に浸かっていた為に、平安以降から定着していた神仏習合を嫌い、近代化兵器を作るという名目で寺の鐘を供出させたり、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく:神仏を分離し仏教を排斥の上、寺を壊すこと)を進めました。

また、斉昭は大規模な軍事練習を行ったり、今まで禁止されていた大船建造を解禁するように進言するなど、近代化や富国強兵を謳い、あくまでも外国人と戦う方向性を考えていたのです。

この頃から、「尊皇攘夷」という言葉が水戸藩では登場し始めました。

尊皇を謳って幕府が庇護する仏教を排斥し、軍事練習と称して一斉に鉄砲射撃の訓練を開始したことにより、謀反を起こすのではないかと考えた幕府は、斉昭に隠居と謹慎を命じた為、彼は一度表舞台から消えたのです。

しかし、浦賀にペリーがやってきた頃、第12第将軍の家慶(いえよし)が死去、跡を継いだ第13第将軍の家定(いえさだ)は病弱で、脳性麻痺の特徴があったと残されていることからみても、将軍としての役割を果たせるタイプではありませんでした。

家臣たちの中にも目立った人材はおらず、黒船来航という一大事に対応する為、幕府は仕方なく、斉昭の謹慎を解いて「海防参与(かいぼうさんよ)」や「軍制改革参与(ぐんせいかいかくさんよ)」という名前だけの肩書を与え、幕政に参加してもらうことにしたのです。

久々に場を与えられた斉昭でしたが、穏便にことを進めたい幕府の意向を徹底的に批判し、「攘夷あるのみ!」と命じ続けましたが、海防の必要性や西洋兵器の自国製造などの良い知恵を持ち合わせていたにも関わらず、戦の具体案はほとんどありません。

「夷敵(いてき:外国人)など刀で十分」「大砲で死ぬのも鉄砲で死ぬのも同じ」「交渉を装って騙し討ち」というような、どちらかと言えば精神論で今すぐ戦えと騒ぐのです。

西洋兵器や黒船の威力などのリアルを知っている幕府は、次第に開国に舵を切り始めますが、その度に斉昭は「攘夷だ!攘夷だ!」と怒鳴り込んできます。

そうこうしている内に、第13代将軍家定に子がいなかった為、次期将軍の後継者争いも勃発してしまいました。

ちなみに御三家の中で将軍を出したのは、紀州徳川だけで、水戸藩からは将軍となったものはいませんでしたが、この時期斉昭にチャンスが巡ってきます。

候補となったのは、斉昭の七男として生まれ、一橋家に養子に出されていた慶喜(よしのぶ)です。彼は当時17歳で、聡明だと評価の高い男でした。



もう一人の候補となった、紀州徳川の慶福(よしとみ)は、その時点でまだ4歳と幼く、慶喜が将軍候補として有力となったのです。

慶喜が養子に入った一橋家とは、御三家のあとに出来た支流で、御三家と同じく、将軍家の補佐や血のスペアとしての役割があり、一橋徳川の他に、田安徳川、清水徳川の3家があります。

一橋家に養子へ出したとは言っても、斉昭にとって慶喜は実子の為、実権を握れると踏んでいたのでしょう。

しかし、斉昭はわりと敵が多く、幕府にも影響を与えると言われていた大奥からも、セクハラにパワハラという行動を取り、倹約を強要してくるケチな男として、とても嫌われていました。

その上、仏教の信心が篤い大奥からしてみれば、廃仏毀釈をけしかける斉昭は敵でしかありません。その息子が大奥に出入りするのは嫌だと大反対されました。

幕府にとっても、開国を進め始めてからは「尊皇攘夷」を訴えてくる斉昭が邪魔となってきたのです。

その為、将軍後継者でも対立が起き始め、最終的には新たに老中首座に就いた「井伊直弼(いいなおすけ)」とも対立をするようになっていきました。

結果、慶喜はこの時負けてしまい、斉昭の野望は消え去ってしまいます。

過激派を生み出した水戸学

第二代水戸藩主となった光圀が人生を掛けて編纂を始めた「大日本史」は、藩の事業となって明治になるまで続いていた為、光圀死後から長い時を経て、「尊皇」という概念はすっかり水戸藩に定着していました。

その反面、水戸藩内の家臣事情は複雑で、初代藩主頼房の頃から武田信玄・勝頼(かつより)の家臣、穴山梅雪の家臣、最上義光(もがみよしあき)の家臣など、主を失った家臣達を抱えていこともあり、幕末になると幕府よりの保守派(諸生党)、尊皇改革派(激派、天狗党)と呼ばれる内部分裂も始まります。

また、生活が苦しかった武士達は、幕府の許可も無く寄付金を出した商人にも、「郷士(ごうし)」という下級武士の身分を与えた為、藩内はますます統制の取りづらい環境だったと言えるでしょう。

水戸藩は江戸定府(えどじょうふ)と言って、藩主が地元にいることはほとんどありません。

その為に、何かあると江戸にいる藩主に訴えるべく、一揆の農民や下級武士達が江戸に押しかけてくるという悪癖もあったのです。

元々統制の取れない環境の中で、大日本史の編纂事業には身分を問わず、優秀な人物を採用していました。明(みん)から呼び寄せた陽明学の学者などもいたほどです。

大日本史を基本として誕生したのが、水戸の政治思想の学問が「水戸学」となりますが、光圀が編纂し始めた前期と第6代藩主の頃から編纂した後期に分けられます。

前期水戸学では「尊皇」を謳いながらも、「敬幕(けいばく)」という幕府への敬いも教えられていたのですが、後期水戸学の頃から尊皇が中心となりました。

その原因を生み出したのは、藤田幽谷(ふじたゆうこく)という人物です。



この人物は、元々古着屋を営む商人の子でしたが、頭が良く学問にも優れていたこともあって、大日本史の編纂に加わるようになりました。

幽谷は、イギリスの捕鯨船が上陸した際、息子である東湖(とうこ)に「今すぐイギリス人を斬ってこい」と命じるほどの過激さを持ち合わせ、ロシアやイギリスの船が増え始めたことで海防や、徹底的に排除するという考えを持ち合わせていたのです。

また、この国体(国のなりたち、ありかた)は天皇から始まっており、我々は日出る国の民であるという思想を強くし、このあとに続く「尊皇攘夷運動」の礎となっていきました。

藤田幽谷の弟子である、会沢正志斎(あいざわせいしさい)著作の「新論」は、その後長州藩の吉田松陰(よしだしょういん)が感銘を受け、水戸学の「尊皇攘夷思想」は、長州の下級武士達に火を点けていくのです。

同じく、薩摩の下級武士であった西郷隆盛大久保利通などにも大きく影響を与えていきました。

幕末の水戸藩は、極貧の生活による不安感や欧米列強の脅威、幕府の及び腰の対応、そして将軍後継者争いも相まって、藤田幽谷の弟子と息子の藤田東湖(ふじたとうこ)が中心となって、徐々に過激派となっていくのです。

結果、桜田門外の変で老中「井伊直弼」を殺害したり、水戸藩内での派閥争いの為に挙兵するなど、過激なテロリストと化していきました。

帝国陸軍にも影響を及ぼしていた水戸学

尊皇攘夷思想を謳った水戸学は、明治に入っての国造りにも影響を与えています。

日本の国体とは天皇を中心に仰ぎ、その下で臣民が一丸となって夷敵と戦うという後期水戸学を元にして新政府は立ち上がりました。

欧米と肩を並べる為に、キリスト教のような国家的宗教を作り上げる為の国家神道と廃仏毀釈や、富国強兵とアジア進出計画、最終的に天皇を現人神とまで神格化し、日本は神の国としたことも「水戸学」の影響だったのです。

そもそも「維新(いしん)」という言葉も、藤田東湖の発言から登場したものでした。

元長州藩士の山縣有朋(やまがたありとも)は、日本陸軍の父と言われる人物ですが、彼も吉田松陰の影響から水戸学と新論の信奉者だったのです。

また、昭和に時代が移り変わっても、若い陸軍将校達の中で水戸学に影響された者達がおり、彼らはのちに皇道派を名乗って国家革新を目指し、「昭和維新」という名目の元で、三月事件や十月事件と呼ばれる軍事クーデター未遂や、226事件を引き起こしました。

水戸学にかぶれた者達に共通することは、尊皇を口にしながら天皇を玉(ぎょく)としか考えておらず、現政権を倒すのであれば暴力や武力を持ってしてもかまわないという過激派になりやすいということでしょう。

水戸学に影響を受けた長州藩の過激派は、尊皇を謳いながらも朝廷に大砲を撃ったり、天皇を拉致して国元に連れていくという計画を立てていました。

しかし、「勝てば官軍」という言葉がある通り、天皇を利用して倒幕を果たした薩長は官軍となり、幕末期の孝明天皇から誰よりも信頼を得て、藩命を掛けても帝を守ろうとした、会津藩主の松平容保(まつだいらかたもり)が逆賊と呼ばれ、テロリスト化した浪人達を取り締まった新選組がテロリストと言われるのですから、つくづく歴史は勝者が創り上げていくものだと実感できます。

神話を知らない国は滅びるという言葉は、歴史学者「アーノルド・J・トインビー」の残したものですが、戦後日本では古事記や日本書紀など、明治時代からの皇国史観を教科書から消されてしまいました。



日本人が二度と立ち上がらず、白人に逆らってこないように、戦後GHQ(共産主義思想者)は愛国精神を持てないよう、様々な日本人弱体化計画を進め、今現在もそれは続いているのですが、神話を削ったのもその一環です。

インターネットの普及により、ここ十年程の間に、古事記や日本書紀、そして自虐史観ではない真実の歴史が広められ、自分の国が好きだという人達も増えてきましたが、皇国史観がもし水戸学経由のものであれば、多少の注意が必要と言えるのかもしれません。

(寄稿)大山夏輝

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