黒船を作ってしまった 幕末の蘭方医と提灯屋

黒船



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海に囲まれた国で暮らす日本人にとって、船は様々な恩恵をもたらす大切な乗り物でした。その歴史は古く、日本人は縄文時代の頃から、簡素な丸木船を操って自由に海を行き来していたのです。

また、船と人が移動することで、他国との係わりや富(食材、着物、宝飾品など)の交換、そして新しい知識や文化も知ることが出来た為、日本人にとって船は、必要不可欠な乗り物だったとも言えるでしょう。

その為、日本では筏から北前船のような巨大帆船に至るまで、造船業は独自の発展を続けてきました。しかし、改良や進化にヒントを与えたのは、やはり外国からの知識や情報だったのです。

例えば、飛鳥時代や平安時代には主に中国大陸から、室町時代にはポルトガルやスペインと、時代によってその都度外国の文化や技術を取り入れつつも、日本人は自分達の中に吸収した上で、独自の技術や文化を発展させていきました。


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その新たな知識が減少したのは、徳川家康が天下統一後に決行した「鎖国」がきっかけと考える人も多いかもしれません。

徳川家が将軍の地位に就いて以降、日本では約260年もの長い間、戦の無い世となりましたが、世界では白人達が植民地支配を始めていました。

白人達は、大航海時代以降我が物顔で海を渡り歩き、アフリカ、インドなどを次々と植民地化していきますが、その後の産業革命も相まって、西洋は目覚ましい技術力の発展を遂げていきます。

その為、長く国を閉じていた日本は、1853年(嘉永6年)に起きた黒船来航の際、見たことも無い巨大な船に驚いた人々が、上も下も大騒ぎになったと言われていました。

しかし、実は幕府もしっかりと世界の技術力や、世界情勢を把握していたのです。
庶民もまた、ペリー率いるアメリカ艦隊の襲来前に、イギリスやロシアの黒船を見ていたこともあって、さほど驚いていた訳ではありません。

それどころか、なんと多くの日本人は「黒船を自分達でも造ろう」と動き始めました。
中でも宇和島藩(うわじまはん:現在の愛媛県)の黒船を造ったのは、蘭方医「提灯屋」だったというから驚きです。

今回は、日本人の意地と努力、そして技術力の高さも誇らしい、黒船を独学で造ってしまった日本人を紹介します。

技術力向上のきっかけは鉄砲伝来から始まった

冒頭でも少し触れましたが、広い海を行き来することが出来るようになった大航海時代以降、白人達は世界中を渡り歩き、植民地支配を続けていきました。

当然日本も狙われており、最初にやってきた白人は、当時の二大勢力であり、世界を二分しようと企んでいたポルトガルとスペインです。

彼らは宣教師の仮面を被り、キリスト教の布教と交易を理由に日本へ偵察隊としてやってきました。今も河童頭としてバカにされがちな「フランシスコ・ザビエル」も実はその1人だったのです。

当時の白人達は、極東にある小さな島国を未開の地と思い込み、そこに住む日本人も、当然無教養で野蛮な人種であろうと高をくくってやってきました。しかし、時は群雄割拠の戦国時代

辺りには刀を持って武装した武士達が、あちらこちらで戦闘に明け暮れている上に、庶民達も、キリスト教に対する矛盾を鋭く突くほどの知力を持ち合わせていました。

また、白人達は他国と同じように、日本人にも自分達の高い技術力を見せつけ、脅す為に鉄砲を渡したのですが、なんと日本人は、手に入れるや否やあっという間に自力で鉄砲を作りあげてしまいます。

その間、約1年程のわずかな時間だったことに加え、鉄砲を作り上げたのは刀鍛冶師達でした。

彼らは模倣だけでは終わらず、鉄砲の改良からついには大量生産まで始めたことに白人達は驚愕し、キリスト教の布教や植民地支配を諦めて国へと帰って行ったのです。

好奇心旺盛過ぎた江戸時代の人々

時は流れ、それから300年以上経った幕末に、今度はイギリス、ロシア、アメリカ、フランスの白人達が黒船に乗って次々と日本へやってきましたが、彼らもまた当初は日本人を大いに侮っていました。

しかし、白人達は日本に上陸して、自分達の認識が間違いだったことに気が付きます。
日本各地で見る町の清潔さ、人々の笑顔、独自の発展した文化を目の当たりにした白人達は、今まで植民地化してきた諸外国との違いを多々発見していくのです。

中でも、戦国時代、江戸時代共に白人達が驚いたことは、日本人の識字率の高さでした。教育というものは、他国では一部の特権階級のみに許されたものです。

貧富の差は勿論、身分制度の激しい諸外国では、文字の読み書きを出来る庶民はほとんど存在していません。

しかし、戦国時代から簡易な寺子屋制度が始まっていた日本では、武士のみならず、僧侶や商人などが文字の読み書きを習得していました。

寺子屋は、江戸時代から徐々に増えていきますが、幕末の頃には爆発的に増加し、全国で1万6千校以上の寺子屋があったのです。

その為、庶民や農民の男女も含め、国民の70%が文字を読み書きすることが出来た上に、長い間平和がもたらされたことで、日本人は能や歌舞伎のみならず、読書や算術までが娯楽となっていきました。

白人達はそんな日本人にとても驚いたのです。



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また、白人達が更に動揺したことは、日本人達の遠慮も悪気も無い、無邪気な好奇心に伴う言動です。

黒船や白人達が何度も訪れるようになると、幕府から禁止令が出されているのにも係わらず、大量の庶民達が役人達の目を盗んでは黒船見学に訪れました。

娯楽の少ない江戸時代には、珍しい物が見られる一大イベントだったのでしょう。
中には、小舟に乗って近くから黒船を観ようとする者や、船内に入ってくる人達も多くいたと証言されています。

船だけでは無く、単一民族の日本人にとっては、道行く白人達の存在自体が珍しく、興味深々で眺めては、服や小物を遠慮なく触りながら、様々な質問をしてくる人達が大勢いたと、幕末に日本を訪れた白人達が口々に証言しているほどです。

他国では白人達の姿や技術力に怯えるだけでしたが、同じように脅す為に見せつけたはずの武器や黒船を、日本人は無邪気に触りまくり、隅々まで調査しては、その形を絵図に残していったと言います。

多くの白人達は「こんなに何でも触る人種は見たことが無い」と評価しており、飽きれながらも日本人の行動に相当戸惑っていたことが分かります。

対して日本人は、戦や植民地支配をされるという不安と、得体の知れない異人に対して恐怖心を持つ人達も勿論いましたが、黒船や洋服に憧れ、西洋文化に興味深々となる日本人も多く存在していたのです。

この日本人達の驚異的な好奇心が、自分達で黒船を造り上げるという、途方も無い計画をもたらしたと言っても過言では無いでしょう。

伊達政宗と伊達宗城

伊達政宗は、戦国武将の中でも人気の高い武将です。しかし、戦国時代の覇者であり「三英傑」と呼ばれた織田信長豊臣秀吉、徳川家康とはかなりの年齢差が有り、彼は天下統一戦には乗り遅れてしまいました。

真相は不明ですが、政宗曰く「あと20年早く生まれていれば、天下を取ることが出来た」と、戦乱の世に遅れて生まれて来たことを悔やみ、長い間秀吉や家康にライバル心を抱いていたとも言われています。

そんな野望高き男、伊達政宗は、天下を諦め切れなかったのか、それともただの好奇心か、政宗は当時のエスパーニャ(現スペイン)国王の使節であった、セバスティアン・ビスカイノと手を組み、日本一大きな帆船「サン・ファン・バウティスタ号」を建造したことがあります。

そんな伊達政宗には、正妻と多数の側室の間に10男4女の子供達がいました。
第一子は、側室である飯坂の局との間に出来た男子で、名を「伊達秀宗(だてひでむね)」と言います。

政宗と正妻である五郎八姫(いろはひめ)には長い間子が出来ず、当初は秀宗が伊達家の当主になる可能性は高かったのですが、その後めでたく五郎八姫との間にも男子が誕生した為に、秀宗はのちに、仙台からは遠く離れた「伊予国宇和島藩(現:愛媛県)」の藩主となりました。

その血筋は脈々と受け継がれ、第8代宇和島藩主となったのが、伊達宗城(だてむねなり)です。

彼は前藩主、伊達宗紀(だてむねただ)の実子では無く、江戸旗本の山口直勝の息子ですが、この実父は第5代藩主、伊達村侯(だてむらとき)の子が山口家に養子に出されている為、遠いとは言っても政宗と血縁関係にあることに違いはありません。

この伊達宗城が藩主に就いた時、時代はまさに激動の幕末に突入していました。

政宗の血か?どうしても黒船が欲しくなった伊達宗城

少し話は逸れますが、鎖国以降の日本では、海外との交流が途絶えていた訳ではありません。幕府は唯一長崎を交易の場として解放し、追放されたポルトガル人とスペイン人に替わって、日本に出入りを許された白人はオランダ人でした。

彼らが多くの書物や、舶来品などを日本に持ち込んでくれたおかげで、江戸時代にも最新の物品や情報は常に長崎にあったのです。

その為、知識欲や商売欲の高い、学者や医者、そして商人達は長崎に移り住み、オランダ語の本を翻訳をしては、貪るように読んでいたと言われています。

多くの人々が血の滲むような努力と、長い時間を掛けて学び蓄えた知識は、幕末頃には、通詞(つうじ)と呼ばれる通訳や、翻訳された本も増えていました。

これが功を奏し、数々の書物や出入りするオランダ人からの情報によって、日本では世界情勢や、隣の大国「清(しん)」がアヘン戦争によってイギリスに負けたことなど知ることが出来たのです。

また近々アメリカ艦隊が日本に来るという情報も入っていた為、幕府は黒船襲来に備え、準備を始めようとしたのですが、実は伊達政宗が「サン・ファン・バウティスタ号」を建造以後、徳川家康は各藩を牽制するように「大船建造の禁」を発令し、それ以降、国内では巨大な船を造ることは禁止とされていました。

しかし、迫る欧米列強の脅威に向け、幕府は急遽オランダから戦艦を輸入することを決定し、諸藩に対してもこの禁を解いて黒船建造を推奨します。

禁が解かれると、元々西洋情勢に通じていた薩摩藩主(現:鹿児島)の島津斉彬(しまづなりあき)、同じく長崎を管理している為、情勢に詳しかった佐賀藩主、鍋島直正(なべしまなおまさ)は、黒船を造る為にすぐさま動き出したのです。

彼らと親交の深かった伊達宗城もまた、黒船を自分の藩でも欲しいと考えましたが、薩摩、佐賀と比べ、宇和島は10万石の小藩でした。

その為、御雇い外国人を雇う余裕も、黒船に対する情報や知識などもありません。困った伊達宗城は、早速黒船を造れそうな人物を探し始めます。



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この3人に共通することは、元々「蘭癖(らんぺき)」と揶揄されるほどの西洋かぶれで、攘夷論(じょういろん:外敵を打ち払う)が吹き荒れる幕末の世に、開国して外国文化を学び、富国強兵するべしという開国派だったことです。

伊達宗城は、参勤交代の移動中に品川で観た黒船に憧れ、どうしても自国に欲しくなったとも言われています。

よほど興味を持ったのか、宗城は自国近海にイギリスの黒船が来航した際、何度も望遠鏡で船を眺め続け、ついには御忍びでイギリス艦内に息子と見学に訪れました。また、1度だけでは飽き足らず、今度は妻や子も引き連れ、艦内を二度も見学をしています。

見学に満足した宗城は、そのお礼にとイギリス仕官を招いて宴を開き、共に酒を飲み、ダンスをして大はしゃぎしたと証言されていますが、この時の宗城は49歳です。

中高年になった宗城のこのハジけっぷりからみても、黒船に乗れたことが相当楽しかったことが窺えます。

その10年程前、親交のあった薩摩藩と佐賀藩が黒船建造を開始したと聞けば、まだ30代と若かった宗城が「自分だって欲しい!」と思うのは、当然の感情だったと言えるでしょう。

途方も無い黒船造りを諦め切れなかった伊達宗城は、幕府に負けない帆船を作った祖先、伊達政宗の血が多少影響していたのかもしれません。

依頼されてしまった蘭方医と提灯屋

冒頭でも触れたように、戦国時代、日本に出入りしていたのは、キリスト教の宣教師と偽って入り込んできたスパイであるポルトガル人と、スペイン人でした。

彼らは布教の傍ら、鉄砲に使う硝石(しょうせき:火薬)と引き換えに地方の大名を抱き込み、多くの日本人を奴隷として買い取ったり、信者達に一揆を煽る、または寺社の破壊などをさせるなどの狼藉を働いていたのです。

それらの悪行と危険性を知った豊臣秀吉、そして徳川家康は、キリスト教を禁止した上で、ポルトガル人とスペイン人の入国も禁止しましたが、入れ替わるように日本へ入り込んできたのがオランダ人です。

彼らはキリスト教の布教を行わなった為に、長崎での交易を許可されていましたが、外国書籍の持ち込みは長い間禁止されたままでした。

許可をしたのは、暴れん坊将軍でお馴染みの第8代将軍、徳川吉宗からで、知識欲の高い学者や医者達は、この時から長崎で「蘭学」を学ぶようになっていきます。

蘭学は、天文学、物理、化学、そして医学など、キリスト教関連以外の様々な分野を学べる為、蘭学者や医者は、西洋からの知識を多々知っていたのです。

ペリー来航の翌年である1854年(嘉永7年)、伊達宗城は1人の蘭方医を宇和島藩に召し抱えました。その名は、村田蔵六(むらたぞうろく)。

この男は、のちに長州藩士となり、日本陸軍の創始者とも呼ばれる幕末の志士「大村益次郎(おおむらますじろう)」ですが、この時はまだ村田蔵六と呼ばれる蘭方医でした。

彼はTBSドラマで大人気となった「JIN~仁」の中で、武田鉄矢さんが演じていた、蘭方医の権威「緒方洪庵(おがたこうあん)」の下で学び、優れた知識を持っていたのです。

伊達宗城は、この村田(大村益次郎)を召し抱え、黒船建造を命じました。理由としては、蘭学に長けているのだから、図面も引けるだろうという程度のものでしょう。

殿様の命令とは言っても、黒船を造ったことも無い者にとってはかなりの無理難題です。村田は困惑しながらも、誰か手先の器用な職人を助手にして欲しいとお願いしました。

その結果、白羽の矢が立ったのは、なんと一介の提灯屋であった「嘉蔵(かぞう)」という男です。

嘉蔵は妻に逃げられる程の貧乏職人でしたが、提灯張りだけでは食べて行けず、簪作りなどの小間物屋や、家屋の修繕などをする便利屋として糊口をしのいでいた為、手先の器用な男として藩内では有名だったのです。

そんな彼の評判は、本人のあずかり知らぬ内に、宗城の命を受け、職人を探していた伊達藩の家老に伝えられていました。嘉蔵を推薦したのは、彼が出入りしていた豪商「清家市郎左衛門(せいけいちろうざえもん)」だったと言われています。

ある日、清家でその話を聞いた嘉蔵は、腰も抜かさんばかりに驚いたことでしょう。勿論、畏れ多いと彼はあっさり依頼を断りました。

最後まで諦めなかった提灯屋の意地

しかし、時代が彼を必要としたのか?それとも、運命には逆らえなかったのか?依頼を断ってから半月程が過ぎた頃、嘉蔵は何故か突然、地引き網漁の際に使うロクロを思い出します。

このことが、嘉蔵の職人魂に火を付けたのか、彼はその日から1週間引き籠り、一本の心棒を動かすと車輪が回転する四輪のからくり箱車を作成してしまったのです。

これを観た藩主、伊達宗城は大いに喜び、嘉蔵を士分に取り立てて黒船建造を命じた為、結局彼は黒船建造を引き受けることになりました。



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嘉蔵はその後、藩の計らいで長崎に留学し、入念な黒船調査を行います。しかし、士分になったとは言っても、元はただの町人で、特別な学があった訳でもない嘉蔵は、周囲の武士達から蔑まされていました。

そんな彼の支えは、長崎で出逢った砲術家の山本物次郎(やまもとものじろう)と、図面制作を任され、嘉蔵の才能を認めてくれた村田(大村益次郎)、そして嘉蔵本人の職人魂だったのでしょう。

山本物次郎は、長崎での黒船見学などの付添人として協力してくれた人物で、無知であった嘉蔵に知識を授けてくれた人物です。また、優れた蘭学者でもある村田は、共に図面を引く中で、嘉蔵が職人として改良点などの意見を述べる様を見て、その才覚に驚いたと言われています。

そんな2人の協力と励ましがあって、嘉蔵は何度かの試作をした結果、蒸気を起こす為のボイラー部分の釜が、圧力を掛けると爆発してしまうことが問題となっていました。

当初その部分は鋳物(いもの:金属を流し込み作る器物)で作られていましたが、嘉蔵はその原因を究明するべく、黒船を再調査したところ、銅が使われていることが判明します。

しかし、鋳物職人達は嘉蔵の申し入れをすぐには受け入れず、中々成功させることが出来ませんでした。しかも職人達は、成り上がりで士分になった嘉蔵をバカにし、上手くいかないことも嘉蔵の責任だと避難する始末だったのです。

それでも嘉蔵は諦めず、銅を使うことを進言し続け、ようやく銅板使用するチャンスをものにしましたが、試運転で釜は爆発はしなかったものの、船はほとんど進まずに不本意な結果となりました。

ここまでくれば、嘉蔵でなくとも黒船を完成させ、試運転を成功させたいと願うでしょう。嘉蔵はすでに蒸気船を完成させていた、薩摩藩へと修行の旅に出掛けます。

薩摩藩の協力により、黒船の研究を1年間続けた嘉蔵は、帰国した1858年(安政5年)に改良を始め、ついに蒸気船を完成させました。

1856年(安政3年)の着工から約3年、1859年(安政6年)に嘉蔵は藩主を乗せ、九島沖(くしまおき)での試運転を成功させたのです。しかも、嘉蔵自らが釜焚きや操縦まで行う徹底ぶりを見せました。

この時乗船した藩主は、宗城ともその息子である伊達宗徳(だてむねえ)とも言われていますが、何れにせよ藩主はとても喜んだと言われています。

泰平の江戸時代に培った教養と文化が近代化への礎

一介の貧乏職人だった嘉蔵は、その後黒船建造を成功させた功績を称えられ、宇和島藩の譜代家臣となりました。名も、前原巧山(まえばらこうざん)と改めています。

設計などに呼ばれていた村田こと大村益次郎は、黒船建造着工が始まった年から、宗城と共に江戸へ出たまま、紆余曲折あって、長州藩士となり幕末の志士となりました。

この2人が初めて蒸気船を造った訳ではありません。しかし、外国の指導も無く、畑違いの提灯屋と蘭方医が先頭となって、日本人だけで蒸気船を完成させたのは宇和島藩が最初です。

黒船来航がきっかけで始まった国産造船の技術は、その後日本中で発展し戦艦帝国となっていきました。大東亜戦争の頃には、450を超える戦艦を所有しているほどです。

「異人が造れたものは、自分達だって造れる」と考えたのは、世界中の有色人種の中で日本人だけでした。

何故そんなことが出来たのかと言えば、200年以上も大きな戦の無かった江戸時代に、読書や娯楽を通して、日本人の知識を吸収する土台が出来上がっていたからと言えるでしょう。

その為、広い世界の情報を、日本人の多くが、本や瓦版で知っていたことも大きかったのかもしれません。

また、身分を問わず、才能のある者は取り立てるという、革新的な武士達が登場したことも大きかったと言えます。



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かつてこの国は、技術大国と呼ばれ、欧米列強と肩を並べる国でしたが、今となってはすっかりその地位を落としてしまいました。

戦争のない今だからこそ、好戦的で好奇心旺盛な幕末期の人々を見習い、日本人はもう一度技術力を取り戻さなければ、この国は完全に植民地化されてしまうかもしれません。

(寄稿)大山夏輝

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