函館・弁天台場とは~土方歳三が救援しようとした新選組最後の地


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函館戦争の際に、一本木関門付近にて新選組副長・土方歳三は戦死しましたが、この時、救出に向かおうとして奮闘していたのが、この弁天台場(べんてんだいば)です。

函館の弁天岬台場跡(弁天台場)は、もともと函館奉行所が函館湾に外国船が来襲するのに備え江戸幕府に願い出て、幕末の1856年から建造した砲撃用の陣地で、設計者は五稜郭も担当した武田斐三郎です。

工事は松川弁之助、のちに井上喜三郎によって、五稜郭より1年早い1863年に完成します。
この弁天台場は、高さ11.2mもある石垣などで囲まれた強固な陣地で、周囲は710mあったと言い、15門前後の大砲が配備されました。

旧幕府軍の榎本武揚らの艦隊が鷲ノ木に上陸して五稜郭を占領した際に、ほぼ大きな抵抗もなく、弁天台場も旧幕府軍の手に落ち、主に新選組の隊士らが入り新政府軍の艦隊を警戒しました。

そして、蝦夷共和国にて陸軍奉行並となり、全軍の指揮を補佐する立場となった土方歳三も、新選組がいる弁天台場へも何度も足を運んだ事でしょう。

函館戦争となると、島田魁もここで戦ったようですが、新政府軍が函館に総攻撃開始した際には、箱館奉行・永井尚志が弁天台場の指揮を担当しています。

5月11日、函館湾海戦となり、新政府軍の朝陽を撃沈して砲弾を射ちつくした蟠竜が、近くに座礁し、乗組員は上陸すると弁天台場に合流しています。

新政府軍の艦艇である甲鉄、春日により艦砲射撃を受けるなど、新政府軍の猛攻により補給路も絶たれた弁天台場は兵糧も無くなります。
そのため、弁天台場の240名は、五稜郭の降伏に先立ち、明治2年5月15日降伏し、新選組最後の地となりました。

用途を終えた弁天台場は箱館港内の船舶航行に支障があるとして、1896(明治29)年に解体されました。
石材の一部は、函館漁港の石積防波堤に用いられたと言います。

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アクセス・行き方ですが、函館市電の終点「函館どつく前」電停で下車して、徒歩2分のところに、弁天台場跡の木柱がありますが、かつての姿は留めていません。
正確な場所は当方のオリジナルGoogleマップにして示させて頂いております。

新撰組と土方歳三を供養した称名寺までは徒歩10分といったところです。

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