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土方歳三とは

土方歳三の信念は「武士よりも、武士らしく。」そして、夢は「新選組を天下一の組織にし、近藤勇を大名にする。」です。
土方歳三(ひじかた-としぞう)が生まれた家は、東京・多摩の豪農です。
多摩は徳川家の天領でしたので「将軍直属の農民だ」と言う意識があり、徳川家に対しては普通の農民とちょっと考え方も異なっていたようです。
簡単に言うと徳川家の農民と言う「誇り」を持っていたと考えられます。
そして、幼いころから農民でありながら「剣術」にも精を出し精進します。

土方歳三の銅像

これらの意識と剣術に没頭したのは、土方歳三だけでなく、約7ヶ月早く生まれていた調布の豪農の出である近藤勇も同じで、土方歳三が試衛館を通じて、同じ多摩出身の近藤勇を知ると、その人柄に惚れたものと推測します。

武芸に精進し「武士になりたい」と言う強い思いはあっても、江戸時代の身分制度は彼らをあざ笑うかのように、農民からの脱却を拒みます。

いくら剣の腕を磨いても、生かす場もなく平和な時代でしたらそのまま道場生活で終わり、近藤勇や土方歳三と言う名も世の中に知られることは無かった事でしょうが、折りしも京都では尊王攘夷を掲げる浪士があふれ、清河八郎の提案により徳川幕府が「浪士組」を募集します。

恐らく、近藤勇と土方歳三は至上の喜びだったに違いありません。剣術を活かして武士のように徳川家に尽くせる機会が訪れた訳ですからね。

そして、これ以来、土方歳三は、近藤勇を大将として、徳川幕府に認めさせようと尽力する訳です。
その過程では、新見錦や芹沢鴨を静粛するなど、壬生浪士組の参謀として近藤勇を盛り立てる為に、手を汚す事もあったと思いますが、これはもう「夢」を実現する為です。



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土方歳三は、汚い方法を取ったな?と考える方も多いと存じまずか、どんな時代でも、勢力争いはこのような感じです。
実際に、幕末の長州藩でも、改革派と穏健派の間で、斬首・切腹など優秀な人材が多数失われている訳ですし、薩摩藩・水戸藩などでもしかりです。

そして、名実ともに新選組を率いた近藤勇のもとで、土方歳三は副長として支え、1864年の池田屋事件にて、ついに新選組はその名を轟かせました。

長州藩が第2次長州征伐にて幕府軍に勝利し、いよいよ倒幕の嵐が強くなると、1867年6月10日、新選組は会津藩預かりとなって、とうとう「幕臣」に取り立てられます。
新選組は京都見廻組と同格となり「武士」になると言う夢を実現したのです。

見廻組与頭格300俵–局長・近藤勇
見廻組肝煎格70俵5人扶持–副長・土方歳三
見廻組格70俵3人扶持–沖田総司永倉新八井上源三郎・原田左之助・山崎烝・尾形俊太郎
見廻組並40俵–吉村貫一郎・大石鍬次郎・安富才輔・岸島芳太郎・安藤勇次郎・茨木司・村上清・谷周平
見廻組御雇10人扶持–平隊士90名


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近藤勇の「与頭」と言うのは「旗本」と言う事で、隊長に相当します。
300俵と言う給料は、簡単に計算しますと300石と同じですので、これまた単純に言いますと四公六民で現在の年収1200万円くらいと言う事になるでしょうか?

しかし、幕臣になることに反対した武田観柳斎ら御陵衛士との抗争もあり、組織維持に苦慮しただけでなく、鳥羽伏見の戦いが始まる前の12月18日に、近藤勇が御陵衛士の残党に狙撃されて重傷を負います。
そのため、鳥羽伏見の戦いでは、土方歳三が新選組を率いて戦いましたが、井上源三郎ら隊士20名が戦死し、旧幕府軍は敗走します。

江戸に戻ると勝海舟の命を受けて、近藤勇と土方歳三らは甲府城へ向かいましたが、甲州勝沼の戦いとなり隊士2名が戦死し、永倉新八、原田左之助らが離隊となりました。

江戸城開城の際には、会津藩に合流するべく、流山に向かいますが、そこで近藤勇はついに新政府軍に捕縛され、1868年4月25日、板橋にて斬首となります。享年35です。
武士になって約10ヶ月後の事で、早くも命を落としただけでなく「反逆者」の汚名をきせられました。

土方歳三は、大鳥圭介らが率いる旧幕府軍と合流し、宇都宮城にて戦った際に足を負傷します。
そして、会津で約3ヶ月療養したのち、戦線に復帰しましたが、仙台へ向かうと榎本武揚の旧幕艦隊と合流して蝦夷地(北海道)に渡り、幕臣として散って行ったのです。

五稜郭

イケメンと言われる土方歳三ですが、その人気は単に容姿だけではなく、その生き様にも共感を覚える歴女や歴男子が多いからだと存じます。

土方歳三の墓は、出身地である日野の石田寺にありますが、実際に亡骸がどこに埋められたのかは不明です。
板橋で斬首された近藤勇の首は、京都に運ばれて三条河原にて晒し首になったことを考慮すると、土方歳三の首は、晒し首になっていませんので、函館戦争で命を落とした際に、新政府軍に遺体は渡らず、榎本武揚ら旧幕府軍がどこかに埋めたものと推測されます。

色々な説がありますが、五稜郭の城内からは多数の遺体が埋められていたのも発見されており、大正時代には洋装の遺体も見つかっています。
それらが土方歳三かはもう調べるすべはありませんが、函館の街から趣味でもあった俳句を詠みながら、日本の行く末を見守り続けているのかも知れません。

下記は、函館・一本木関門跡にある「土方歳三最期の地碑」です。

土方歳三最後の地

土方歳三と近藤勇の出会いはいつだったのか?検証してみた
土方歳三の詳細年表
近藤勇とは~新選組局長として徳川幕府に尽くした生涯
土方歳三資料館と土方歳三の墓
五稜郭と箱館戦争とは~蝦夷共和国と幕末ロマンに想いを寄せて
函館・弁天台場とは~土方歳三が救援しようとした新選組最後の地
箱館戦争で戦死した土方歳三の函館足跡8箇所+αを訪ねる方法
「土方歳三」その秘めたる優しさ~夢に散らせた鬼と云われし漢の生涯
高幡不動尊とは 新選組・土方歳三の銅像も
尊王攘夷と公武合体とは?幕末の政治運動を分かりやすくお伝えします



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高田哲哉日本の歴史研究家

投稿者プロフィール

高田哲哉と申します。
20年以上、歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して史跡も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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