土方歳三「詳細年表」新選組副長 近藤勇と共に正義を貫き最後は函館で




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新選組副長「土方歳三」の生涯の動向をできる限り詳しくご紹介したい。

1834年10月9日、近藤勇が多摩・上石原村(現在の東京都調布市野水)にて誕生。
1834年12月3日、伊東甲子太郎が、常陸国志筑藩(現在の茨城県かすみがうら市)にて生まれる。
1835年5月5日、土方歳三が多摩・石田村(現在の東京都日野市石田)で生まれた。農家の土方隼人(土方義諄)が父で、母は恵津。土方家は「お大尽(だいじん)」とよばれる多摩の豪農。

稲荷森

1838年2月2日、中島登が多摩小田野(現在の東京都八王子市西寺方町)で誕生。
1838年6月、土方歳三の姉・周が亡くなる(16歳)
1839年10月、近藤周助が江戸市ヶ谷柳町にて試衛館を開いた。

1840年、土方歳三の母・恵津が死去(48歳)、大洪水のため土方歳三(6歳)は被災現在地に移転。
土方歳三の父は、生まれる3ヶ月前に亡くなっていたので、次兄の土方喜六と、その妻・なかによって養育された。
1842年、沖田総司が江戸で生まれた。
1844年、斉藤一が江戸に生まれる。9月12日、藤堂平助も江戸にて誕生。
土方歳三の姉・のぶ(14歳)が日野宿名主の佐藤彦五郎に嫁入。
土方歳三も佐藤彦五郎宅にはよく出入りしていたと言われる。


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1845年、土方歳三(11歳)は、江戸上野松坂屋呉服店(現在の松坂屋上野店)に丁稚奉公に出るが、すぐに番頭とケンカして家に戻ったと伝わる。
ただし、近年の研究では、奉公に出たのは数えで14歳~24歳の10年間と考えられ、奉公先は不明となっている。
郷里に戻った後、土方歳三は150年に渡る実家秘伝の「石田散薬」(捻挫などの薬)を行商しつつ、各地の剣術道場で他流試合を重ね、修行を積んだ。
今でも土方歳三資料館には製造中止した頃の石田散薬が僅かに残っている。

石田散薬

1849年2月10日、日野宿で大火が発生。佐藤彦五郎は火事に乗じて命を狙われた事で、武芸を身に着ける必要性を感じ、1850年に天然理心流3代目宗家・近藤周助の門人となった。
そして日野宿では初となる出稽古用の道場を敷地内に設け、後の新選組の母体となる近藤勇、土方歳三、沖田総司らが出稽古に訪れるようになった。
近藤勇も1849年11月11日に、天然理心流剣術道場・試衛館に入門していたのだ。
土方歳三は指導に来ていた近藤勇と出会い、天然理心流に出入りするようになった。

1855年2月10日、小野路村組合の寄場名主・小島鹿之助が近藤勇と義兄弟の杯を交わしたことに影響され、佐藤彦五郎も近藤勇と義兄弟の杯を交わしている。
1859年3月29日、土方歳三は正式に、天然理心流に入門。
1860年2月4日、 土方歳三が谷保村(現在の国立市)の親戚・本田覚庵を訪問。漢学・書道を習ったようだ。3月29日、近藤勇が松井ツネと結婚。
閏3月20日、土方歳三が谷保村の本田覚庵を訪問。4月2日、4月17日、6月8日、8月29日、10月1日~2日と頻繁に本田覚庵を訪問。10月14日には、近藤勇と共に本田覚庵を訪問している。
9月30日には、府中六所宮で天然理心流献額の神事があり、土方歳三が型試合を披露。12月2日には、土方歳三が小野路村の小島キクに見舞状を書いている。

1861年3月23日、土方歳三は谷保村の本田覚庵を訪問。他にも、4月23日~24日、9月1日に訪問している。
1861年4月12日、土方歳三、沖田総司は小野路へ出稽古し、橋本道助宅に宿泊。
1861年5月20日、清河八郎は水戸浪士との会合の帰途、町人を斬殺し、5月28日に出奔。
1861年8月27日、近藤勇が天然理心流宗家4代目を継承。
府中六所宮大国魂神社にて襲名記念の紅白試合では、土方歳三が紅組の大将を守る役で出場した。

大國魂神社

1862年2月27日、土方歳三は小島鹿之助宅より本田覚庵を訪問。3月1日~2日、3月25日にも訪問している。
1862年4月21日、近藤勇と土方歳三は、小野路の橋本家で出稽古を行い宿泊。5月9日は土方歳三のみ、7月1日は近藤勇、土方歳三の2人で橋本家に1泊している。
1862年12月28日、江戸幕府は清河八郎の浪士募集策を、正式決定した。


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1863年1月7日、会津藩主・松平容保は公用局を設け。老中・板倉勝静と松平忠敏に。浪士隊募集の沙汰を出す。
腕に覚えがある者であれば、犯罪者であろうとも農民であろうとも、身分を問わず、年齢を問わず参加できる、当時として画期的な警護組織であった。
1863年1月15日、土方歳三は小島鹿之助より刀を借りた。この頃、土方歳三は「豊玉発句集」を書いている。
近藤勇・土方歳三らは、試衛館の仲間とともに、将軍・徳川家茂警護の為の浪士組に応募。
1863年2月4日、小石川伝通院にて浪士隊234名が顔合わせし、翌日2月5日、浪士隊編成と諸注意が伝えられた。
1863年2月6日、近藤勇は近藤周斎に京行きを報告し、浪士隊は2月8日に江戸を出発して中仙道にて京に向った。
2月10日、先番宿割を任されていた近藤勇が芹沢鴨の宿を取り忘れてしまい、激怒した芹沢鴨は本庄宿路上で大篝火を焚く。2月17日、近藤勇が組頭に就任。
2月23日、浪士隊が京の壬生に入り、近藤勇・土方歳三らは八木家に宿泊。2月29日、近藤勇らは御所を拝観。
3月13日、清河八郎らが率いる浪士組は京都を出立して江戸へ向かったが、芹沢鴨や近藤勇らは反対し、浪士残留組13名は会津藩預かりとなり、八木邸に残留。
3月16日に浪士残留組は京都守護職邸で松平容保に拝謁した。
3月19日、土方歳三は、八王子千人同心で、京の警備に赴いていた井上源三郎と井上松五郎を訪問し四条芝居茶屋で酒宴。
3月26日、土方歳三は小島鹿之助と橋本道助に上洛後挨拶の手紙を書く。この頃、島田魁が浪士残留組に入隊。
4月8日、10日にも土方歳三は井上源三郎と井上松五郎を訪問し、芹沢鴨の事などを相談している。
4月17日、井上松五郎が壬生を訪問し、田中茶屋にて、土方歳三、井上源三郎、沖田総司、山南敬助、斉藤一、近藤勇が天狗の件で相談。
江戸に戻った浪士隊は新徴組と名を変えて江戸市中の取り締まりを命じられた。
4月21日、将軍・徳川家茂が大坂城に入場。壬生残留浪士組は警護のため帯同し、八軒家京屋忠兵衛方に宿泊。4月22日には、井上松五郎が土方歳三と井上源三郎を訪問し、沖田総司を加えて登楼した。
5月11日、徳川家茂が京に入り、壬生残留浪士組も警護のため同行した。
5月25日、壬生残留浪士組は総員35名の連名で、江戸幕府に攘夷断行と兵庫開港反対の上書を提出。
6月9日、徳川家茂が京を出発して大坂に向う為、浪士組も警護。6月10日、近藤勇、土方歳三、井上源三郎、永倉新八、野口健司、佐伯又三郎、平山五郎ら他5名が、井上松五郎を送別する酒宴を開催。
この頃、芹沢鴨の乱暴狼藉が目立つようになる。
会津藩・薩摩藩を中心とした公武合体派が、長州藩を主とする尊皇攘夷派を京都から追放開始。
8月17日、会津藩主・松平容保は、壬生残留浪士組に出動命令を出し、秋月悌次郎が命令を伝えた。
8月18日、朝廷より壬生残留浪士組に「新選組」の隊名が下賜され、8月21日、松平容保は新選組に対して、市中見廻りを昼夜行う事を命じ、新選組は三条木屋町にて、桂小五郎の捕縛に向った。
9月8日、新選組副長・新見錦が局中法度違反により切腹。
1863年9月16日、新選組の近藤勇・土方歳三ら天然理心流派は、芹沢鴨、平山五郎、平間重助を襲撃し、芹沢鴨、平山五郎を殺害。9月18日、壬生寺にて芹沢鴨と平山五郎の葬儀を行った。
土方歳三は、小島鹿之助に近況報告の手紙を書いている。
この頃までには、新選組局長は近藤勇、副長に土方歳三が就任していた。

新選組のマーク

1864年1月2日、新選組は将軍警護のため大坂に入り、大坂天保山で徳川家茂を出迎えた。
1月10日、土方歳三は平忠右衛門と平作兵衛に年賀状を書いている。
1月14日、新選組は徳川家茂入京の準備として伏見城の裏を警備開始。
1月15日、徳川家茂に従って入京し、新選組の屯所に戻った。
2月2日、早朝に会津藩と新選組を批判する立札が四条大橋東詰め高札場で発見された。
連光寺村(現在の多摩市連光寺)の富沢政恕が夜に壬生を訪問して土方歳三、沖田総司、井上源三郎と酒宴を開いている。
2月4日、松平容保が新選組に恩賞金を出した。
2月9日、土方歳三、沖田総司、井上源三郎の3人が富沢政恕の宿を訪問したが不在だった。
3月3日、土方歳三は井上源三郎と富沢政恕を訪問し、清水寺を参拝後、祇園藤屋で酒宴。
3月5日、近藤勇 土方歳三、沖田総司、井上源三郎、藤堂平助と富沢政恕を誘って、島原木津屋で酒宴。
3月11日、近藤勇 土方歳三、沖田総司、井上源三郎、藤堂平助、武田観柳斎と富沢政恕を誘い花見の後、島原木津屋で酒宴。
4月11日、近藤勇 土方歳三、沖田総司、井上源三郎と富沢政恕の送別会を千紅万紫楼で開いた。
4月12日、土方歳三は佐藤彦五郎に鉢鉄添え状を書いている。
4月13日、土方歳三は前日の手紙と日記・鉢鉄を富沢政恕に託して井上源三郎と伏見まで見送った。
4月26日、京都見廻組が結成され佐々木只三郎が与頭に抜擢された。
5月6日、徳川家茂は京を出て江戸に向った為、新選組は大坂まで警護。
5月16日、徳川家茂が天保山より乗船。新選組は安治川河口を警備。
5月17日、新選組の近藤勇以下9名はそのまま大坂に残留し、土方歳三らの隊士は京に戻った。
この頃、新選組の隊士の脱走者が増える。
6月5日、池田屋事件。長州藩・土佐藩・肥後藩等の尊王攘夷派志士を新選組が殺傷。新選組の名は天下に轟いた。
6月7日、会津藩手代木直右衛門、広沢富次郎が、新選組に松平容保からの褒美の金品を渡した。
6月21日、新選組は会津藩の探索依頼を受けて、東六条に出て西本願寺に宿泊。
6月24日、東本願寺周辺を警戒中に会津藩・広沢富次郎の依頼を受けて、新選組は竹田街道に出陣。

 新選組ふるさと歴史館の土方歳三

1864年7月19日、禁門の変(蛤御門の変)。京都を追放されていた長州藩勢力・久坂玄瑞らが、会津藩主・京都守護職松平容保らの排除を目指して挙兵した為、新選組は九条河原より御所に出動し会津藩兵と守備に着いた。その後、天王山に敗走の真木和泉らを追討するため会津藩と伏見に宿陣し、21日に新選組は天王山に出陣。22日、大坂で残党狩りし、長州藩の武器弾薬多数を押収して壬生に戻った。
8月4日、江戸幕府は新選組に対して、池田屋事変の感状と恩賞金を出した。
8月15日にも、新選組に対して将軍・徳川家茂より感状が出た。
8月19日、土方歳三は小島鹿之助と橋本道助に近況報告の手紙を書いている。
この8月頃 近藤勇の態度に不満を感じた永倉新八、斎藤一、原田左之助、島田魁、尾関政一郎、葛山武八郎が会津藩主・松平容保に非行五ヶ条を提出。
9月5日、近藤勇は隊士募集の為、江戸に向かう事が決まり、6日に近藤勇、永倉新八、武田観柳斎、尾形俊太郎が、将軍出陣嘆願と新選組隊士募集のため江戸に向った。
先に江戸に入っていた藤堂平助は伊東甲子太郎を訪問し新選組入隊の説得。
9月16日、土方歳三は、会津藩士・山本覚馬に仇討ちを勧められて新選組へ入隊した、佐久間象山の遺児(三浦啓之助)を新選組で預っている事を、勝海舟に伝える手紙を書いた。
9月21日、土方歳三は小島鹿之助に上溝村(現在の相模原市中央区)の火事見舞いと挨拶を兼ねた手紙を書いている。
相模国高座郡上溝村の佐藤為彦と近藤勇・土方歳三と面識があった。
9月26日、新選組は長州の間者、楠小十郎、御倉伊勢武、荒木田左馬之亮を斬殺。
10月5日、土方歳三は隊士・篠塚峰三の離隊を認めた。
10月7日、日野より訪れた松木元太郎と小林重太郎の入隊を土方歳三は認めなかった。
10月9日、土方歳三は近藤勇・佐藤彦五郎に対して近況報告の手紙を書いている。
10月15日、江戸の近藤勇ら一行は京に旅だち、10月27日に京に入った。
11月1日、土方歳三は実家に鉄扇を送っている。
12月1日、伊東甲子太郎ら一行8名が京に入り、12月3日に新選組入隊。新選組参謀 兼 文学師範に、伊東甲子太郎が就任。

土方歳三

1865年1月8日、新選組は大坂のぜんざい屋を襲撃し、土佐脱藩浪士・大利鼎吉を切り捨て、土佐勤王党の残党による大坂城乗っ取り計画を阻止。
近藤勇・土方歳三は連名でぜんざい屋事件の報告書を谷万太郎、正木直太郎に会津藩まで届けさせた。
この頃、朝廷は新選組に禁門の変の感状を下す。
2月9日、土方歳三は佐藤彦五郎に近況報告の手紙を書いている。
2月21日、新選組総長・山南敬助が脱走。沖田総司が山南敬助を追い捕縛。2月23日、山南敬助が切腹(33歳)、光縁寺に埋葬された。
2月頃、土方歳三は西本願寺と屯所移転を交渉。3月1日、土方歳三は佐藤彦五郎に屯所移動などの近況報告の手紙を書いた。
3月10日、新選組は西本願寺の太鼓楼に屯所を移転。
3月21日、沖田総司は、佐藤彦五郎に土方歳三が江戸下向する件と、山南敬助切腹の件を伝える手紙を書く。
土方歳三は隊士募集のため江戸に向い、4月5日に江戸に入った。
4月6日、佐藤彦五郎は江戸滞在中の土方歳三を訪問。
4月12日には土方歳三が日野の佐藤彦五郎家を訪問。
4月14日、土方歳三は日野で小島鹿之助と面会。
4月27日、新隊士55名をつれて、土方歳三は京に向い、5月10日に京に入った。
5月に新選組は隊規の更新と新編成を行った。
閏5月22日、新選組は徳川家茂を三条蹴上まで出迎えて二条城まで警護し、閏5月24日には徳川家茂を藤ノ森まで警護した。
7月22日、土方歳三は大坂の井上松五郎に残暑見舞いを書いている。
9月9日、土方歳三は近藤周斎、宮川総兵衛、近藤ツネに「行軍録」添えた近況報告の手紙を書いた。
11月2日、土方歳三は近藤周斎、宮川音五郎、宮川金次郎、佐藤彦五郎宛てに近藤勇の広島出張を知らせる手紙を書いている。
12月22日、近藤勇は松平容保に報告。

土方歳三

1866年1月3日、土方歳三は佐藤芳三郎宛てと土方隼人・土方伊十郎宛に2通の年賀状を書いている。
1月26日、近藤勇は伊東甲子太郎、尾形俊太郎、篠原泰之進らと共に、再び広島に向った。
2月、土方歳三は佐藤彦五郎に刀を添えた手紙を書いた。
2月15日 新選組勘定方・河合耆三郎が切腹。
3月12日、近藤勇・尾形俊太郎が広島より京に戻った。
3月29日、土方歳三は宮川音五郎、粂次郎兄弟、近藤ツネ宛てに近藤勇帰京を知らせる手紙を書く。
4月1日、京都東山の祇園社(八坂神社)石段下にて新選組七番組組長・谷三十郎が頓死。
6月1日、近藤勇は会津本営の松平容保を見舞う。
9月、江戸幕府が、鴨川にかかる三条大橋の西詰に立てられた制札が、3度に渡って引き抜かれ鴨川に捨てられたことから、新選組が制札の警備を開始。
9月12日、制札を引き抜こうとした土佐藩士8名を新選組が発見し襲撃。(三条制札事件)
9月19日、土佐藩は新選組の近藤勇、土方歳三、伊東甲子太郎、吉村貫一郎を祇園栂尾亭に招いて和解。
9月26日、伊東甲子太郎が初めて近藤勇に新選組分離を申し出た。
9月28日、新選組五番隊長・武田観柳斎が薩摩藩と内通の疑いにより、斉藤一、篠原泰之進に斬殺された。
10月20日、新選組に会津藩より三条制札事件の感状と恩賞が出た。
1866年12月25日、孝明天皇が崩御。(満35歳没)既に薩長同盟を締結していた薩摩藩・長州藩と、会津藩・新選組の対立が激化することになった。

1867年1月1日、伊東甲子太郎・斉藤一・永倉新八の3名は、島原角屋で1月3日まで流連。流連とは、遊興にふけって家に帰るのを忘れることで、すぐに伊東甲子太郎、斉藤一、永倉新八は謹慎処分となった。
3月13日、伊東甲子太郎は近藤勇、土方歳三に新選組分離案を提示し、16日に3名で新選組分離案を話し合った。
そして、3月20日、 伊東甲子太郎、藤堂平助、斎藤一ら13人が御陵衛士を結成して離隊し、孝明天皇御陵衛士を拝命。五条橋東詰長円寺に入った。
(斎藤一は間者として潜入していたとされ、後に新選組に復帰。)


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6月10日、近藤勇は二条城で幕府直参取立ての沙汰を受け、新選組は幕臣となった。幕府直参となることを潔しとしない新選組隊士10名は伊東甲子太郎に同盟を乞うが時期早しと拒否され、京都守護職邸で嘆願書を提出。
6月14日、二条城で親藩会議が開催され、近藤勇が出席。同じ日、新選組隊士10名は京都守護職邸で襲撃され4名斬殺、6名は京を追放された。
6月15日、不動堂村に新選組の屯所を移動。
6月22日、新選組五番隊長・武田観柳斎が京都郊外の鴨川銭取橋にて斬殺される。
6月23日、新選組の幕臣取り立てが正式決定。
6月24日、近藤勇の建白書を土方歳三、山崎燕、尾形俊太郎、吉村貫一郎が、柳原前光、三条実愛を訪問して届けた。
9月20日、土佐藩士・後藤象二郎が、大目付・永井玄蕃守邸で近藤勇と面会。
この頃、土方歳三は隊士募集のため井上源三郎と共に江戸に向った。
10月8日、土方歳三は日野の佐藤彦五郎邸を訪問。
10月14日、江戸幕府第15代将軍徳川慶喜が将軍を辞し政権返上を明治天皇に上奏し、翌15日に天皇がこれを勅許。(大政奉還)
10月21日、土方歳三らは新隊士を連れ京に向い、途中の品川釜屋で昼食。10月22日大磯に宿泊し、10月23日は箱根に宿泊。
11月1日、土方歳三は佐藤彦五郎宛と推定のお礼と道中報告の手紙を書いた。
11月3日、土方歳三ら一行は京に入った。
11月10日、斉藤一が伊東甲子太郎の御陵衛士を離脱。11月13日、伊東甲子太郎は坂本龍馬を訪問。
11月15日、坂本龍馬中岡慎太郎が暗殺された近江屋事件。
11月18日、近藤勇は伊東甲子太郎を接待し、酔った伊東甲子太郎は帰途の油小路・本光寺門前にて、新選組隊士の大石鍬次郎ら数名により暗殺された(油小路事件)。
伊東甲子太郎、享年33。その直後、御陵衛士と新選組で戦闘となり藤堂平助が戦死。(24歳)
11月26日、幕府若年寄・永井尚志が近藤勇を事情聴取。近藤勇は犯行を否定。
12月2日、土方歳三は剣術の小手を購入。
12月7日、天満屋事件。海援隊士・陸援隊士らが京都油小路の旅籠・天満屋を襲撃して、紀州藩士・三浦休太郎を襲い、三浦休太郎を警護していた新選組と戦闘となった。
海援隊士・陸援隊士と新選組で戦闘。斉藤一は中井庄五郎を斬った。
12月8日、新選組は大坂の商家十軒より4000両を借用。
12月9日、薩摩藩の大久保利通や公家の岩倉具視倒幕派により、王政復古の大号令。
12月11日、会津藩は新選組に伏見奉行所に移るよう命じた。この日、新選組は大坂の商家十軒に3000両を返済。
12月12日、新選組は将軍・徳川慶喜がいる二条城に入ったが、13日、徳川慶喜の大阪城退去に新選組も同行。
12月14日、新選組は大坂天満宮に入ったが、15日、伏見奉行所に移るように指示を受け、16日に伏見奉行所に戻った。
12月18日、二条城での軍議に参加して伏見に戻る途中の近藤勇が、墨染で御陵衛士の残党に銃で狙撃され重傷。その後、病気の沖田総司と共に大阪城で療養した為、鳥羽伏見の戦いは副長・土方歳三が指揮して戦った。
12月27日、土方歳三は尾張藩からの伏見退去の要求を拒否。12月29日、土方歳三は小幡三郎を薩摩陣営に潜入させた。

1868年1月3日、鳥羽伏見の戦い。1月4日、新選組は鳥羽街道で戦闘後、淀城下に宿陣。1月5日には井上源三郎が戦死(38歳)、会津藩士・佐川官兵衛は右目下に炸裂弾を受け負傷。
会津藩と新選組は淀城に入れず大坂橋本に敗走。1月6日、橋本の戦いでも敗れ、新選組は天満橋西詰代官屋敷に入り、1月7日、大坂城二の丸に入った。
徳川慶喜、松平容保、松平定敬、板倉勝静らは、既に1月6日に「開陽丸」にて大坂を脱出していた。

開陽丸

旧幕府方は1万5000人の兵力を擁しながら緒戦にして5000人の新政府軍に敗れたのだ。新政府軍は圧倒的な重火器を擁していた。
1月9日、新選組の永倉新八らは「順動丸」に乗船し天保山を出港。
1月10日、近藤勇、土方歳三ら負傷者と介護の隊士は「富士山丸」に乗船して兵庫に停泊したのち、江戸に向かった。
1月12日、順動丸が品川に入港し、新選組隊士は釜屋に入る。
1月14日、富士山丸は横浜に入港し、新選組負傷者は仮病院の仏語伝習所に収容。
1月15日、近藤勇、沖田総司は神田和泉橋の幕府医学所に入り、他の隊士は釜屋に入った。
1月16日、近藤勇・土方歳三が江戸城に登城。
1月17日、会津藩主・松平容保は、江戸城登城を拒否して、帰国の準備に入った。
1月18日、近藤勇と土方歳三は佐藤彦五郎・粕屋良循と会っており、同日、会津江戸藩邸で2000両の軍資金を得ている。
1月20日、新選組は鳥居丹後守邸に移った。
1月22日、土方歳三は洋式軍服を受け取り、1月23日、髪を総髪にして写真を取った。
2月12日、近藤勇は江戸城に登城。徳川慶喜の警護を命じられる。
2月16日、会津藩主・松平容保は少数の藩兵を率い江戸を出て、会津へ向かった。
2月28日、新選組は勝海舟から甲陽鎮撫を命じられ、3月1日、新選組を主力とする甲陽鎮撫隊 約200名は大砲2門・小銃500挺・軍資金5000両で江戸を出発し、内藤新宿で豪遊した。
3月2日、甲陽鎮撫隊は府中に宿泊。3月3日、近藤勇と土方歳三は日野の佐藤彦五郎宅を訪問し歓待を受ける。日野からは春日隊として農兵隊が甲陽鎮撫隊に加わった。
3月4日、甲陽鎮撫隊は笹子峠を越えたが、3月5日、新政府軍(東山道軍)の土佐藩・板垣退助、薩摩藩・伊地知正治ら3000が、先に甲府城を接収。
甲陽鎮撫隊は駒飼に進み徹夜で軍議し、3月6日、土方歳三は旗本の間で結成されていた菜葉隊に援軍要請しに引き返した。
しかし、300いた甲陽鎮撫隊は脱走者が後を絶たず、121名で勝沼に布陣し勝沼の戦いとなったが、敗走し八王子にて解散となった。

勝沼の戦い

3月8日、近藤勇は阿佐谷の玉野家に潜伏。土方歳三は援軍要請に失敗して近藤勇に合流。
3月10日、和泉橋医学所にて、近藤勇は永倉新八、原田左之助らと会うが意見の違いから新選組と決別し、3月11日、永倉新八は芳賀宜道を隊長にして原田左之助らと靖兵隊を組織。
新選組からは矢田賢之助・林信太郎・前野五郎・中条常八郎・松本喜次郎らが離隊して加わり、諸藩脱走者・旗本ら50名程・幕府歩兵50名程の総勢100名も集まったと言う。
これに対して、新選組は会津藩に合流すべく、負傷隊士20数名を3月11日に会津に先発させた。
予定されていた新政府軍の江戸城総攻撃3月15日の直前である3月13日と3月14日に勝海舟と西郷隆盛が会談し江戸城開城。
近藤勇らは旧幕府歩兵らを五兵衛新田(現在の東京都足立区綾瀬四丁目)の金子健十郎宅にて募集したのち3月14日、先発隊士と合流。3月15日には土方歳三が新隊士を連れて近藤勇と合流。
しばらく、新選組は潜伏していたが、4月1日に流山に移転を開始し、味噌醸造元・長岡屋を本陣として光明院に分宿した。斎藤一は、新選組本隊を率いて、会津に向かったとされる。
これを察知した新政府軍・東山道総督軍は流山に向い、4月3日、土方歳三は仮名・内藤隼人として応対し武装解除に応じた。
一方、近藤勇は4月4日に、仮名・大久保大和の名を語って東山道総督府副参謀・有馬藤太に投降。土方歳三は勝海舟を訪問した後、鴻台(市川)に向った。
4月5日、近藤勇は板橋の東山道総督府本営に送られたが、御陵衛士だった加納道之助に見破られ、近藤勇と分かってしまい、総督府の訊問を受け、板橋宿・平尾脇本陣の豊田家に幽閉された。
土方歳三は、島田魁ら数名の隊士と4月10日に今戸に入り、4月11日に伝習隊を率いて江戸を脱出した大鳥圭介の旧幕府陸軍3000と鴻台で合流。別途、永倉新八、原田左之助ら靖鋭隊も江戸城から脱出して、旧幕府軍への合流を目指した。
4月12日、旧幕府軍の軍議で大鳥圭介が総督、参謀には土方歳三が就任し、宇都宮城に向けて進軍。
4月16日、土方歳三は旧幕府軍の別動隊を率いて、松戸小金宿から水海道、下妻陣屋を制圧して、下館藩に武器、食料を供出させ、下館に向かった。
4月18日、土方歳三ら旧幕府軍は蓼沼に布陣し、4月19日に宇都宮城を攻撃。
逃亡する味方兵を斬殺しながらも、なんとか宇都宮城を占領した。
4月20日、土方歳三は会津藩士で伝習隊に加わっていた秋月登之助と連名で、笠間藩重役に宇都宮出向を強要する書簡を書いている。
4月22日、大山巌ら新政府軍の増援 約250人が壬生城に入るなど、20000になった新政府軍は、4月23日に、宇都宮城奪還の総攻撃を開始し、宇都宮城松が峰門を守備していた土方歳三は左指に銃弾を受けて負傷。戦線を離脱して今市に後退した。その後、土方歳三は治療のため4月24日に会津に向った。

土方歳三

4月25日、近藤勇は、中仙道・板橋宿近くの板橋刑場で斬首された。享年35(満33歳没)。その首は京都の三条河原で梟首されたと言う。
4月26日、土方歳三は会津田嶋陣屋に入り、4月29日、会津城下の七日町清水屋に入ると、幕府の医師・松本良順の治療を受け流山脱出隊士と合流。
斉藤一(山口次郎)が、土方歳三の治癒までの間、新選組隊長に就任した。
一方、大鳥圭介ら旧幕府軍は日光に立て籠もったが、新政府軍の板垣退助は旧幕府軍に使者を送り、日光からの撤退を勧めて、大鳥圭介らは負傷者多数と物資不足もあった事から、会津で決戦するべく、会津に向かった。
閏4月5日、斉藤一(山口次郎)は松平容保に拝謁し軍資金を賜る。
会津藩は、新政府軍をまず白河城を奪い前線防衛拠点とする為、家老・西郷頼母が率いた軍に、斉藤一指揮の新選組も加わり、閏4月22日に白河城下に着陣。
5月30日、千駄ヶ谷の植木屋にて療養中の沖田総司が死亡 (25歳)、専称寺に葬られた。
6月15日、土方歳三は覚王院義観と面談。
7月1日に土方歳三は全快し、戦線に復帰して7月6日に新選組と合流。福良に出張した。
7月29日、新選組は町守屋より郡山への進出を計るが断念し、8月1日、町守屋より湖南に移動。
いよいよ会津に迫り来る新政府軍を迎え撃つため、8月18日に新選組は猪苗代城下に移り、8月19日に母成峠に大鳥圭介らと共に布陣。
8月21日、新政府軍は主力を母成峠に向け、母成峠の戦いとなるが、大鳥圭介隊、土方歳三隊など会津藩は敗走。
8月22日に、土方歳三は滝沢峠にて防戦するが敗退し、新選組は米沢街道塩川に退却して8月23日に宿陣し、大塩村で土方歳三は大鳥圭介と松平定敬に会い、戦局不利と米沢に向かい、8月25日に米沢に入った。
一方、斎藤一は会津に戻り、鶴ヶ城下で、会津藩と共に最後まで新政府軍に抵抗を続けた。

9月3日、土方歳三は榎本武揚と合流し、仙台青葉城での軍議に参加。土方歳三は軍事総督就任を要請されたが意見が合わず拒否。
一方、斎藤一は新選組一隊を率い、会津城下の如来堂村に向い、観音堂に布陣。9月22日に会津藩が降伏したあとも斎藤一は戦い続け、松平容保が派遣した使者の説得によって投降した。
会津降伏後、捕虜となった会津藩士とともに、斎藤一は旧会津藩領の塩川、のち越後高田で謹慎生活を送り、以後も会津藩士と共に行動した。


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榎本武揚と土方歳三は、仙台青葉城での抗戦を訴えるが仙台藩は拒否。9月16日、旧幕府軍が仙台に入ると、10月10日に土方歳三は、新選組の残りと共に「大江丸」に乗船。榎本艦隊は10月12日に仙台を出港し、函館を目指した。
若年寄・永井尚志、陸軍奉行並・松平太郎など総勢2300名が乗船。
北海道に到着した土方歳三は、10月22日、一隊を率いて、川汲峠を越えて五稜郭に向かい、砂原に宿陣した。10月23日、土方歳三隊は鹿部村に宿陣し、24日には川汲で斥候数名を撃退。

箱館戦争川汲戦戦死者慰霊碑

25日に上湯ノ川に宿陣して、10月26日、土方歳三隊は、峠下・七重方面からの大鳥圭介隊と共に五稜郭に入城した。
さっそく、新選組は箱館市中取締を命じられている。

五稜郭

10月27日、土方歳三を総督として額兵隊・衝鋒隊などからなる700名が松前城に向けて出陣。
11月1日に知内で敵の奇襲を受けるが、11月5日には松前城に到達し占領した。

松前城

11月11日、江差に退却していた松前藩兵を追撃し、11月4日、大滝峠の敵兵を撃退。
11月15日、「開陽丸」から艦砲射撃の援護を受けて、土方歳三隊は江差を占領。

えさし海の駅「開陽丸」

しかし、この夜、天候が急変し開陽丸が座礁。箱館から回天丸と神速丸が開陽丸救出のために江差に到着したが、神速丸も座礁し、旧幕府軍は4隻中2隻失った。
12月15日に土方歳三隊は箱館へ凱旋し、蝦夷地平定の祝賀会を各国領事を招き開催。
榎本軍は共和国政府の役員を選挙で決定。総裁・榎本武揚、副総裁・松平太郎、軍艦奉行・荒井郁太郎、陸軍奉行・大鳥圭介、陸軍奉行並・土方歳三、開拓奉行・沢太郎左衛門、箱館奉行・永井尚志、松前奉行・人見勝太郎。
12月29日、土方歳三は酒井孫八郎を訪問。

1869年1月1日、土方歳三は小柴長之助と共に酒井孫八郎を訪問。1月6日、酒井孫八郎が土方歳三を訪問。
1月14日、酒井孫八郎が、榎本武揚と土方歳三を訪問。1月19日、酒井孫八郎は土方歳三を訪問。
この酒井孫八郎は桑名藩の家老で、榎本武揚らと函館に来ていた桑名藩主・松平定敬(会津藩主・松平容保の弟)を説得に訪れていたのだ。
1月28日、土方歳三は新選組の市中取締を賞して、金千疋を隊士に与えた。
新政府軍は2月、松前藩、弘前藩兵を中心に約8000名が青森に集結。
3月4日、酒井孫八郎が土方歳三を訪問。
3月16日、新政府軍の艦隊3隻が宮古湾入港したと、新選組隊士・中島登が箱館に急報。
3月19日、五稜郭内で緊急軍議が行われた。
新政府軍の最新鋭艦・甲鉄を奪取する作戦を立案し、3月20日、海軍奉行・荒井郁之助を指揮官として、陸軍奉行並・土方歳三以下100名の陸兵を乗せた回天丸と蟠竜丸、箱館で拿捕した高雄丸の3隻が宮古湾に向けて出航した。
しかし、暴風雨ではぐれてしまい、速力の出る回天丸のみで、甲鉄奪取作戦を敢行するも撃退され、新政府海軍の砲術士官として乗船していた東郷平八郎の「春日」により追跡を受けた高雄丸は新政府軍に投降した。

4月9日早朝、海陸軍参謀・山田顕義率いる新政府軍1500名が江差の北にある乙部に上陸。
衝鋒隊・伝習隊からなる300名の土方歳三隊は二股口守備のため五稜郭を出陣した。
土方歳三隊は4月10日、台場山(二股口)に着陣して16箇所の胸壁を構築するも、4月12日には陸軍参謀・黒田清隆率いる新政府軍2800名が上陸し、松前口(海岸沿いに松前に向かう)、木古内口(山越えで木古内に向かう)、二股口(乙部から鶉・二股峠を抜け大野に向かう)、安野呂口(乙部から噴火湾に面する落部に向かう)の四つのルートから箱館へ向けて進軍を開始した。
二股口の戦いでは土方歳三が奇略を用いて、4月13日、新政府軍700を後退させ、その夜、陣地を巡り兵士達を労った。

二股口の戦い

4月15日、市村鉄之助は土方歳三の写真を持って箱館を脱出し、日野を目指した。
4月22日、新政府軍は再度攻撃を試みたが、二股口の土方歳三隊はこれも撃退。

二股口の戦い

23日午後、新政府軍は正攻法をあきらめ、急峻な山をよじ登り、側面から小銃にて撃ってきたので、そのまま夜を徹しての大激戦となった。
24日未明には、瀧川充太郎率いる伝習士官隊が抜刀して敵中に突進し、混乱する新政府軍を敗走させたが、新政府軍は次々と新しい兵を投入し、旧幕府軍は熱くなった銃身を水桶で冷やしながら、小銃で応戦し続けた。
25日未明、ついに新政府軍は撤退。
これ以降、新政府軍は二股口を迂回する道を山中に切り開き始めた。
4月29日、矢不来が新政府軍に突破されると、退路を断たれる危険があった土方歳三隊は五稜郭への撤退を余儀なくされている。

函館戦争

松前・木古内から進軍した東下軍と二股から進軍した南下軍が有川付近に集結、新政府軍が箱館制圧の体制を整えると、5月1日、土方歳三は弁天台場と七重浜の守備兵を訪問し激励。

新選組最後の地

土方歳三は5月4日に五稜郭に戻った。
5月9日、土方歳三は、五稜郭の箱館病院事務長で、会津藩士だった小野権之丞を訪問。
5月11日、函館市内が新政府軍に制圧され、孤立した弁天台場の救出に向かった土方歳三は、一本木関門付近で指揮中に狙撃され戦死。(35歳)

一本木関門跡

弁天台場では兵糧が底を付き、5月15日、永井尚志以下240名が降伏。

弁天台場

箱館奉行並・中島三郎助らの千代ヶ岱陣屋守備隊は降伏を拒否して全滅。

総攻撃が始まると、旧幕府軍では脱走兵が相次ぎ、5月18日、降伏勧告を受け入れ五稜郭は開城した。

7月に土方歳三の写真は市村鉄之助(16歳)により日野の佐藤彦五郎のもとへ届いた。

土方歳三の銅像

(参考) 新選組年表

土方歳三と近藤勇の出会いを検証してみた
新撰組副長である土方歳三の「生き様」とは
土方歳三資料館のご紹介
斎藤一とは~新選組の中でも腕の立つ剣士 会津藩と運命を共に
島田魁~途中から入隊した新選組であったが最後まで戦った義の士
伊東甲子太郎~新選組参謀になるも御陵衛士を結成し暗殺された逸材
淀古城と淀城の違いや淀古城の戦い~茶々の産所となった淀城とは
勝沼の戦いとは~新選組の衰退を決定づけた甲州勝沼の戦い(柏尾の戦い)
開陽丸とは~江戸幕府のオランダ製最新鋭軍艦 江差で喪失した理由
五稜郭と箱館戦争とは~蝦夷共和国と幕末ロマンに想いを寄せて
函館・弁天台場とは~土方歳三が救援しようとした新選組最後の地
箱館戦争で戦死した土方歳三の函館足跡8箇所+αを訪ねる方法
土方歳三資料館のご紹介



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高田哲哉日本の歴史研究家

投稿者プロフィール

高田哲哉と申します。
20年以上、歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して史跡も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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コメント

    • 高田哲哉
    • 2016年 5月 13日

    通りすがりさま、お問い合わせありがとうございます。
    ご質問にある日にちの箇所に関しては、たしか、他サイトさんのを参考に記述したような気が致しますが、何を参考にしたのまでかは不明でございます。
    お役に立てず、お詫び申し上げます。

    • 通りすがり
    • 2016年 5月 13日

    貴サイトの記事、大変興味深く拝見しております者です。

    こちらの年表に「1844年(略)9月12日、藤堂平助誕生」とありますが、どちらの史料をご参考になったのでしょうか。
    藤堂に関する関連書籍などをいくつか見てきましたが、こと詳細な生誕日に関しては寡聞にして存じませんでしたもので非常に関心があります。

    ほんの些細な質問でたいへん恐縮ですが、よろしければどうかお聞かせください。


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