開陽丸とは~江戸幕府のオランダ製最新鋭軍艦 江差で喪失した理由


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日本海に面した北海道江差町は江戸時代から、ニシン漁と北前船貿易で栄えた港町です。
その江差の港に「開陽丸青少年センター」と言う、えさし海の駅「開陽丸」があります。
道の駅ならぬ海の駅?じたい、珍しい表現ですが、実物大の開陽丸の船体を再現した資料館(復元船)が人気です。
そもそも、開陽丸と言う船は、どんな歴史をたどったのでしょうか?

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開陽丸とは

開陽丸(かいようまる)は、簡単に申し上げますと、幕末に江戸幕府が所有していた軍艦で、榎本武揚が函館に渡って「蝦夷共和国」を設立すると、函館戦争の際にも旧幕府軍の旗艦となった大型のシップ型3本マスト戦闘艦でした。

1862年、和宮が将軍・徳川家茂に嫁いだ年ですが、徳川幕府の安藤信正は外国勢力に対抗するため、最新鋭の大型艦を、当初はアメリカ駐日公使のタウンゼント・ハリスに打診します・
しかし、断られたため、オランダに発注し、同時に内田恒次郎、榎本武揚ら15名の留学生もオランダに渡り、操船技術などを学びました。
江差にて復元されている「開陽丸」の展示などと一緒にご紹介いたします。

1863年からドルトレヒトのヒップス・エン・ゾーネン造船所にて建造開始され、2年後の1865年に進水。
榎本武揚が考えた船名・開陽丸が採用されていますが、オランダでも3000トン級の大きな軍艦が建造されることは珍しく、多くの市民が進水式に集まったと言います。
開陽丸は長さは約72.8m、幅約13m、排水量2590tの木造シップ型帆船で、410馬力と言う強力な蒸気機関と、最新のクルップ砲(ドイツ製)など26門が搭載されていました。
※のち大砲は追加されて35門。

1866年10月25日に、内田恒次郎、榎本武揚ら9人の留学生や、オランダ海軍大尉ディノーら109名が同乗してオランダを出発します。
途中、ドーバー海峡を抜けたあたりで18日間も暴風雨にあいながらも無傷で、1867年(慶応3年)3月26日に横浜港へ入港し、軍艦奉行・勝海舟らが出迎えています。

その後、榎本武揚が軍艦頭並に登用されると、オランダ海軍式の軍制を整えました。
開陽丸が日本に到着した頃は、高杉晋作が死去した頃ですが、一方で、薩摩藩の島津久光が、京都警備のため兵7000を率いて京都に入ったところでもあります。
約6ヶ月後には、15代将軍・徳川慶喜が朝廷に大政奉還すると言う、激動の年になっていました。

そのため、開陽丸は、富士山丸、蟠竜丸、翔鶴丸、順動丸と共に大坂城の沖に停泊して警備に就いています。

鳥羽・伏見の戦いとなると、榎本武揚の開陽丸は阿波沖で薩摩藩・赤塚源六らの春日丸・翔凰丸に対して砲撃し、翔凰丸を由岐浦にて座礁させるなど海戦に勝利しました。(阿波沖海戦)
なお、1200m~1500mの距離にて開陽丸は25発、応戦した春日丸は18の砲撃をしていますが、近代的蒸気船同士としては日本では初めての海戦となりました。

ただし、どちらも命中弾は無かったようで、死傷者も出ていません。

鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が敗戦となると、大阪城の将軍・徳川慶喜は、開陽丸に乗り込みます。
この時、榎本武揚は逆に大坂城へ向かっていたため、行き違いとなり、徳川慶喜は、副艦長・澤太郎左衛門に命じて1月8日に大坂から江戸に向けて出航しました。
置き去りとなった榎本武揚は、富士山丸にフランスの軍事顧問団のブリュネ、カズヌーブらを乗せ、1月12日に大坂を出航して、品川沖に入港しています。

その後、榎本武揚は海軍副総裁となりますが、勝海舟と西郷隆盛の話し合いにより、4月11日、江戸城無血開城となります。

しかし、榎本武揚は新政府軍に対して徹底抗戦を唱え、8月19日、開陽丸を旗艦とした榎本艦隊(回天丸・蟠竜丸・千代田形丸)と、陸軍兵を乗せた運送船4隻(咸臨丸・長鯨丸・神速丸・美賀保丸)とともに加えて品川沖を脱走しました。

なお、榎本武揚は総司令官となったため、開陽丸の艦長は澤太郎左衛門が就任しています。

房総沖で暴風雨に遭い、美賀保丸と咸臨丸を失いますが、開陽丸は仙台に到着。
修理が施されたあと、奥羽越列藩同盟が崩壊して行き場を失っていた大鳥圭介土方歳三など、旧幕府勢を榎本艦隊に収容して、10月12日、仙台折浜から蝦夷地へ向かったのです。

そして、10月20日に蝦夷地の鷲ノ木沖に到着した開陽丸は、10月25日に旧幕府軍が箱館と五稜郭を占領してから、箱館港に入港しました。
その後、旧幕府軍は松前城(福山城)を艦砲射撃して奪取します。

更に土方歳三らは江差へと進軍しますが、開陽丸は榎本武揚を乗せて11月11日に箱館を出港して江差沖へ向かいます。
11月14日に江差沖に到着して艦砲射撃をしますが反撃がなく、偵察の結果松前藩兵は撤退していため、上陸して江差を無血占領しました。

しかし、翌日15日の夜、天候が急変して猛吹雪に押されて開陽丸は岩礁に挟まれて座礁します。

現代のように天気予報も無かった時代ですので、天候の悪化を予測するのも難しいですが、艦を喪失すると言う事は、乗組員の技量不足(人材不足)もあったと推測されます。
回天丸と神速丸が救助を試みますが、神速丸も座礁・沈没してしまい、機関長の中島三郎助らは全員、船から退去しました。

座礁してから10日後、開陽丸は完全に沈没して姿を消しています。

破壊されていく開陽丸の姿を見守っていた榎本武揚と土方歳三は、そばにあった松の木を叩いて嘆いたとされ、今でもその「嘆きの松」が旧檜山爾志郡役所前に残っています。

榎本艦隊にとって、開陽丸は最新鋭の大型主力艦であり、この喪失は大きな打撃でした。
新政府軍は、幕府がアメリカに発注していた新造艦で当時の日本唯一の装甲艦でもある「甲鉄艦」を購入しており、蝦夷に向かわたことで、艦隊のバランスも旧幕府軍は不利となりました。

昭和49年~昭和57年の間、沈没地点からの引き上げが本格的に行われ、大砲、弾丸、火薬缶、ロープ、帆布、サーベル、日本刀など32905点の遺物が収容されました。

これらの一部が、現在、江差にある復元艦「開陽丸」にて展示・公開され、日本初の海底遺跡として登録されています。
下記は回収された開陽丸のスクリューシャフトです。

えさし海の駅「開陽丸」に関しては下記にて別途ご紹介もさせて頂いております。

開陽丸・資料館の営業は下記のとおりです。

入館料は大人500円、小中高生250円
開館時間は朝9時~17時ですが、発券は16時30分で終了
4月~10月は無休です
冬季11月~3月の定休日は月曜日・祝日の翌日(但し祝日が月曜日の場合、翌日と翌々日が休館)と、12月31日~1月5日の年末年始がお休みです。

咸臨丸とは~初めてのアメリカ横断と北海道木古内での最後
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蝦夷地探訪シリーズ

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徳山館・大舘~蠣崎光広(蠣崎光廣)と蠣崎季広
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